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中津藩士による女敵討ち事件

 江戸時代にあった豊前中津藩士による女敵討ち事件(間男を討つ)を紹介します。

 豊前中津藩奥平家の家臣に渡辺金十郎という武士がいました。安永7年(1778) 、金十郎は藩主のお伴で、新婚まもない若妻を残して参勤交代で江戸に出ます。

 しかしその留守中に妻は、金十郎の甥で同僚でもあった荒井三十郎という藩士と不義の仲になったのです。

 翌安永8年、妻に不義があったとも知らず、金十即は中津へ帰ってきました。

 その年は事なく過ぎましたが、次の安永9年正月、三十郎と若妻は、不倫関係が発覚するのを恐れて中津を出て駆け落ちしたのです。

 駆け落ちされた金十郎は直ちに藩庁に女敵討ちを願い出て後を追います。

 2人は長崎へ向かいますが、妻の方が足を痛め、途中の山家宿(現福岡県筑紫野市)に逗留しているうちに、同年3月、方々を探し回っていた金十郎が追いついたのです。

 三十郎と若妻は死装束で金十郎を迎え、抵抗することなく二人合わせて討たれたといいます。

 なお、この事件処理のため金十郎を福岡藩まで迎えに行った中津藩士の一人が、福沢諭吉の曾祖父の福沢友米でした。

 地元の豪農山田又九郎は二人の死をあわれみ、塚を立てて二人を手厚く葬り、切害塚(比翼塚)として残っているそうです。