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大久保長安事件~伝説と野望の真相!?

 大久保長安は元の名を大蔵十兵衛といい武田信玄に仕えていた猿楽師で、武田家滅亡後に家康に仕えた後は直轄領の代官や各地の鉱山開発を任されて徳川家に莫大な富をもたらしましたが、死去後不正蓄財の咎により一族死罪を命じられ膨大な私財を没収されたことで知られています。

 長安の生涯や事件に関しては昔から様々な逸話が語られていますので、伝説の類も含めて紹介したいと思います。

土屋姓と大久保姓

 信玄に仕えていた際に長安は兄新之丞と共に重臣の土屋家から土屋姓を与えられたとされ、また、家康に仕えた際には大久保忠隣から大久保姓を名乗ることを許されています。(兄は後に長篠の戦いで討死)

 部下に自己の姓を名乗ることを許すのは長年側近くに仕えて大功を挙げた忠臣か余程の寵臣などにしか有り得ません。

 特殊技能により富をもたらし、かなりの人たらしであったためと思われますが、それにしても長安にまつわる不思議の一つではないでしょうか。

豪奢な生活

 その豪奢な生活は大名はもちろん将軍さえも凌ぐほどでした。
屋敷には家康も持たないような国内外の財宝、珍品を山ほど蓄えたほか、地方の代官所へ赴く時は、家来のほか美女二十人、猿楽師三十人を引き連れ、途中の宿場ごとに酒池肉林の豪華な宴会をしながら豪勢な行列を引き連れて往復していたといわれます。

長安と松平忠輝

 長安は佐渡金山と往復することが多かった便宜上、途中である越後高田の領主松平忠輝(家康の六男)の財政監督を命じられています。

 長安の末子右京は13歳の時から忠輝に仕え、忠輝の異父姉の婿である花井遠江守の娘(孫とも)を娶ったといわれます。その妻の兄弟(父とも)である花井主水は忠輝の縁戚であることから松平家中で威を張り、長安と結託して邪魔な重臣の皆川、山田らを陥れ死に追いやったと・・・

長安の遺言と事件の勃発

 死に際しては、黄金の棺を作り、甲斐において国中の僧を集めて壮大な葬儀を執り行うよう遺言していたといわれます。

 のみならず、愛妾24人に対しそれぞれ1万両と豪華な織物を形見として残し死んだそうですが、息子の藤十郎たちがその金子を出し惜しみ、とりあえず千両ずつ渡したそうです。

 千両もあれば十分だろうと考えたようですが、妾達は約束の1万両を渡さないことに怒って駿府の奉行所に訴え、家康の耳にも入ります。

 家康はそのような桁違いの金子を所持していることを怪しみ、妾達から話を聞いたところ、藤十郎を恨む妾達は長安の豪奢な生活や蓄財などをべらべらとしゃべったといいます。

 このことから、家康は長安の不正蓄財を調べるに至ったといわれます。

屋敷から発見された財物

 死んだ長安の屋敷に役人を派遣して調べさせたところ、

・金70万両のほか銀銭多数
・舶来の豪華な諸道具
・刀剣「村正」100腰以上

などの財物が発見されたそうです。

長安の野望!?

 屋敷では財物と別に寝室の床下から石櫃が発見され、その中には黒塗の箱に入った異国の王とやり取りがなされた書状があったとの伝説があります。その中身はというと・・・

日本にキリシタンを広め、海外からの軍を引き入れて松平忠輝を日本の王として担ぎ上げ、長安は関白となる

との内容であったといわれます。

 更に一味の連判状まであり、天下の争乱になることを恐れた家康が自ら処分したため詳細な内容は伝わっていないとされ、この伝説には忠輝の岳父である伊達政宗も絡んでいるとの尾ひれも付いています。

長安の子供たちの処分

 家康は長安の子供らに対して、各地の鉱山での収支を明らかにするよう命じますが、子供らは「長安に賜った大久保家の領地ではないのですか」などといい、家康が激怒したといいます。

 家康が、長安に与えたのはあくまでも八王子の領地のみ(千石、八千石、三万石など諸説あり)であるとして収支を明らかにさせようとすると、子供らは「若輩者ゆえ報告できません」と・・・

 結果、長安一族はお取り潰しとなり、長安の遺体はわざわざ墓から暴かれて磔にかけられ、長男藤十郎ほか子供らはことごとく死罪を命じられます。

長安と八王子と武田家

 長安は支配地の八王子で、武田遺臣から八王子同心を組織したことが知られており、武田家への思い入れは強かったようです。武田信玄の次男竜芳(海野信親)の子で僧となっていた武田信道や信玄の娘松姫(信松尼)を庇護していました。

   しかし、その思い入れが強すぎておかしなことになっています。長安の屋敷から、武田菱の幕や旗が大量に見つかり、更に自らの出自を武田家とする偽造系図まであったといわれています。

 これは、武田信道を唆して所持していた武田家の系図や武田菱の陣幕などを拝借して長安が作成したもので、長安が武田の名を利用して反乱を企てていたとの説があります。

 更に、毒酒数石も見つかります。1石は100升ですから、一升瓶数百本の毒酒ということですね。事実だったとすればどこでどうやって使う気だったのでしょうか?

 ちなみに信道が長安の陰謀?に加担していたのかどうかは分かりませんが、この事件に連座して信道とその子信正は伊豆大島に流罪となってしまいます・・・

徳川家中の勢力争いに巻き込まれた?

 長安側の疑惑について紹介してきましたが、逆に長安一族が陥れられたとの説もあります。

 事件当時、徳川家中では本多正信・正純父子と、大久保忠隣との勢力争いの真っ最中でした。忠隣は前述のとおり長安に大久保姓を与えた後見者です。直前には忠隣と対立する正純の側近が処分される「岡本大八事件」が起こっています。

 長安の豪奢な生活を苦々しく思っていた本多父子が、岡本大八事件に対抗して忠隣を追い落とすために家康にあることないこと吹き込み事件をでっち上げたという説もあります。

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家康が欲で目がくらんだ?

 長安が特殊技術により鉱山からの産出を大幅に増加させている間は好き放題するのを黙認していたものの、次第に産出量も減少し長安も死んでしまうと、長安一族は単に莫大な財を蓄えているだけの用済みの存在だと気づいた家康が、財産を没収するために事件を作ったとも・・・

長安の埋蔵金!?

 当然といえるでしょうが、長安には埋蔵金伝説もあります。屋敷で発見された金銀のほか、箱根山中にも莫大な金銀を隠していたというものです。事件後幕府も同所を探したともいわれており、近世になってからも埋蔵金探しが行われているようです。

 以上大久保長安にまつわる様々な逸話を紹介しました。単なる伝説や後世の創作もあるでしょうが、元々小説や映画の登場人物のような生涯ですので、結構ありえる内容ではないでしょうか?

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