PR

江戸城大奥の実話~大奥女中明治の回顧談

 明治24年に東京帝国大学の学者らが旧幕府関係者から聞き取り調査をした『旧事諮問録』から、江戸城大奥に関する話について、大奥女中であった人たちの回顧談を紹介します。

語った元大奥女中

【元大奥中﨟 箕浦 はな子】
【元大奥御次 佐々 鎮子】

(佐々さんはいつごろからお勤めになりましたか?)

弘化からでございます。ちょうど今(明治24年)より46年前からでございます。

(それでは慎徳院(十二代将軍家慶)様の時分でございますね)

左様でございます。

(それから箕浦さんは?)

私はずっとあと、昭徳院(十四代将軍家茂)様の御代でございます。

(それでは文久頃でございますね)

左様でございます。和宮様の御下向の前でございます。

(和宮様の御下向は文久二年頃(文久元年東下、同二年婚礼)でありましたな。その頃お幾つ位でありましたか?)

御下向の年、私は十七でございました。和宮様は午(うま)のお歳で、お十六で御下向になりました。

(そうして、いつごろまでお勤めになりましたか?)

(箕浦)私は二ノ丸に父がおりまして、私の十五の年に召出されて勤めておりましたが、翌年麻疹(はしか)が流行いたしまして、私、その麻疹がチトよろしくございませんで、十九の年にお暇(いとま)をいただきましたのでございます。

(佐々さんの方はいつごろまででありますか?)

(佐々)私は瓦解まででございます。御城渡しをいたしまして、一ツ橋のお邸へお立退きになりまして、それから赤坂の紀州邸へ天璋院(十三代将軍家定夫人)様がお出でになるまでお供をいたしました。

(それでは慎徳公から慶喜公まででございますね?)

左様でございます。まず御四代でございます。

大奥の御坊主

(奥の女中方は表へは出られませんか?)

左様、御錠口から外へは一切出られませぬ。御錠口は上のお鈴と下のお鈴と二口に分かれておりまして、そこに御錠口番という役人がおります。これは女で、それが二人位でございます。それに助(すけ)が二人でございまして、御表から何でもそれへ掛合いが出来るのでございます。それから御伽坊主という者がございます。これも女でございます。坊主で羽織を着て、栄喜だの栄佐だのと申す名でございます。これが将軍様の御剣(ぎょけん)を捧げて御供をいたします。この御坊主ばかりは御錠口から御表へ御用の時は出ることが出来るのでございます。御伽坊主は三人でございます。

(それは老人でありますか?)

老人とも限りませぬ。若い者もおります。

(それは頭をまるく剃っておるのでありますか?)

左様でございます。それで男の着物でございます。

(それが中奥へ通ることが出来るのですか?)

左様、中奥へでも御表へでも出ることが出来ますので、ただ女と申すばかりで、男の通りでございます。

ふだんは掛合事や何かの時に、先方の御用掛りや御膳番などと、上(かみ)の御鈴で応接をいたすだけでございます。

(その御伽坊主は、御座の間あたりまで行かれますか?)

自分用では行かれませぬが、上(かみ)の御用なれば行かれます。

(表の男の坊主は、大奥へ通ることが出来ましたか?)

それは出来ませぬ。

(大奥の御台様から将軍様への御用で、その御伽坊主を遣わされるのでありますか?)

いえ、御台様には御坊主はございませぬ。御坊主は将軍様ばかりのお附きでございます。

(その御伽坊主は主にどこにおりましたか?)

奥でございます。大奥に部屋がございまして、将軍様の御小使でございます。

(そうすると、御台様の御用の時には、御台様附きの女中から、御伽坊主に申付けるのでありますか?)

左様でもございませぬ。

(それではどういう身分の者でございますか?)

格は呉服の間でございますから、至ってよいという所ではございませぬ。

(呉服の間と申しますのは?)

御召物を仕立てる所でございます。そこに役所がございまして、みな呉服をいたす人ばかりが寄っていたしますので、他のことには少しも係わりませぬ。そして将軍様、御台様とみな別々に掛りがございます。

(それは女ばかりでありますか?男の方に呉服の間はありませぬか?)

左様、男にはございませぬ。女ばかりでございます。

(只今お話の御坊主の格は、その呉服の間でございますか?)

左様でございます。しかし呉服の間の御用はいたしませぬ。お目見以上でございまして、御側廻りのことばかりいたしております。

(それは若い時から頭を剃って出るのですか?また、どういうわけで御坊主を願うのでありますか?)

それは子供が亡くなったり、また御三の間の髪の毛の薄い者などが、願って出るのでございます。

(それには身分に段がありましたか?)

別に段はありませぬ。

(どういう支配の下に入りますか?)

左様、将軍様の御側向きには役も幾通りかございますから、まずその中へ入りましょう。

(その取締りは誰がいたしますか?)

総体の取締りは御年寄がいたします。御客会釈(おきゃくあしらい)からいろいろ役はございますが、締りは上の方で付けております。御年寄は総体の締括りでございます。

大奥女中たち

(御明の御中﨟と申しますのは?)

御中﨟の中で何の御用のない、お手の付かない、お手の付かないのは清い御中﨟と申すので、お手の付いたのは汚い方に落ちるのでございます。

(中﨟はすべてで幾人でしたか?)

八人でございました。そのうち三人でも四人でも・・・。しかし温恭院(十三代将軍家定)様は、まことに少なうございました。

(清いのも汚いのも入れて八人でしたか?)

左様でございます。その上に御客会釈という中﨟の甲羅を経たのがおりまして、それから御錠口番が二人、助(すけ)が二人、御坊主が三人でございます。

(お手の付いた中﨟と御部屋様とは違いますか?)

御部屋様は御世継でもお持ちなさらなければ、御部屋様とは申されませぬ。御十三代様の御腹様で実成院(じっしょういん)様と申しますのは、紀州からいらしたお方で御上通り(おかみどおり)でございます。御上通りは姫君様方の末座でございます。なお当時は、公方様御台様の様はほんとうの様で、姫君様の様、御腹様の様は、漢字のくずし方によって書き分けておりました。

(お手の付いた中﨟でも、上﨟には頭を押えられましたか?)

それは中﨟頭が取締りをいたしておりますから、いくらお手が付いてもお子様の生まれませぬうちは致し方ございませぬ。それから御年寄はまるで御表の御老中のようなもので、御本丸の千鳥の間とか、西丸の鶯の間とかいうような所におりまして、煙草盆を控えて、ちっとも動きませぬ。そこへいろいろなことを申込むと、一々捌きをするのでございます。

(御年寄は幾人でございましたか?)

上﨟年寄が二人、通常(ただ)のが四人でございます。そこへ諸方からいろいろなことを申して参りますし、また御表からも御錠口という役へ、お逢いを願いますとか何とか言ってくるのを受付けて、左近将監御相手などと伝えて来ますと、御年寄はその御錠口役を連れて出て行き、御錠口で表役人と応対するのでございます。

(その御年寄は御中﨟から上がるのでありますか?)

いえ、この役は一体の振り出しは御三の間でございますが、これは御目見以上の娘でなければなりませぬ。その御三の間へ始め出て、そこで勤め上げて、呉服の間へ行くのもあり、御右筆へ行くのもあり、また御次へ行くのもあります。それからだんだん経上(への)ぼって来て、双六で言えば御年寄が京の上がりになるのでございます。しかし御中﨟は申さば御側役で、御表の御小姓衆などのようなもので、容貌(きりょう)のよい者が出るのでございます。

(御三の間はどういう御用をいたしますか?)

左様、まず上(かみ)の朝のお手水(ちょうず)のご湯桶(ゆとう)のようなものから、すべて上のお身体(からだ)に附くものから、お水は漉水(こしみず)で上げたり、いろいろ役がございます。お唐草などは畳一畳半もあるような猫足の火鉢、懸盤(かけばん)の火鉢など、猫足の分ばかりでも三十六位はございます。その火鉢へ炭をついだり、掃除をする所もたくさんございます。

(御三の間は幾人でありましたか?)

将軍様の分は十八人位でございます。

(それでは将軍家と御台様と分けているのでありますか?)

左様、御台様の分は九人ばかりもございましたか。

(御次は?)

大概同じものでございましょう。

(姫君様のは?)

五人位。

御手付き中﨟

(先程、中﨟の中にも清いのと汚いのがあるというお話でしたが、御台様附きの中﨟にも汚いのがありましたか?)

それは御台様附きの中﨟に、容貌(きりょう)のよいのがありますと、公方様がお見染めあそばして、御台様に、あれがほしいとお願いあそばすと、御台様から献上になるのでございます。つまりその中﨟はお附替(つけか)えになるのでございます。

(そのほか間違いや何か、不規則のようなことはありませぬか?)

それはまず無いと見るのでございますが。

女中の出家

(御附の女中で髪を切るとか切らぬとかいうのは、どういう人は切らんのですか?)

上(かみ)のお棺の中に御台様がお髪を切って入れますのは当然でございますが、ほかの御附は髪を切る者はございませぬ。

(御附でお比丘になりますのは、どういう人でありますか?)

お比丘になりますのは、その時の公方様に、前に申上げたような御附がございます。御代替りで右大将様が御世嗣となりますと、前々よりの御本丸の格式を存じております者が、後に残らなければなりませぬ。その時に、この中で何人残れという上(かみ)からのお名指しで、残る者がきまりますので、下から誰々をと申上げることは出来ませぬ。その残った人は親御様の御附がお子様の御附に変わるのでございます。その余の者が比丘尼になるのでございます。

(比丘尼にならずに下がることは出来ないのでありますか?)

若い人などは縁付きますのもございます。そういうのは、すぐに御暇を頂戴いたしてよろしいのでございます。しかし比丘尼になりますと、一生御扶持が下がります。勤めております通りに頂くのでございます。そして何院という称号を賜わるのでございます。

(それは今の上﨟などが比丘尼になりますのですか?)

左様でございます。髪を切るのでございます。お手の付いた方は一生下げられないのでございます。切髪と申して、二の丸か三の丸か桜田へ隠居をいたします。一生お暇が出ませぬので、御殿の置物になってしまうのでございます。たといお子様が無くても下げられないのでございます。

(そうすると、残る者と比丘尼になる者との割合はどんなものでありますか?)

それは比丘尼になる方が少ないのでございます。後に残る者の方が多いようでございます。

(残った人達が病気の時は、下がって療治が出来ましたか?)

下げられないのでございます。お手の付いたのは行けませぬ。二の丸とか桜田に養生所がございますから、お手の付いたのはそこで養生をいたしますが、養生が叶わずして亡くなりますと、桜田から葬式をだすのでございます。普通の御奉公人は親が病気だと申しますと、三十日のお暇が出ますが、お手の付いた方はお暇が出ませぬ。

大奥の夜

(夜分の燈火(あかり)は蝋燭でありましたか?)

左様、おみ燈火は、お通りの路々にあるのは、真鍮の網の冠せてあるもので、お側向きのは真鍮の一本足の燭台で、御常夜燈はきまっておりました。これは四十匁の蝋燭でございます。それからお夜詰めで燭台を引いてしまいますと、御有明(おありあけ)と申して、御行燈(おあんどん)みたようなものの上に、烟出(けむりだ)しの附きましたものが出ます。それは春慶塗りで、油でございます。

(それは燭台がみな引かれますと、有明になるのでありますな。燈芯は幾本くらい入る規則でありましたか?)

それは御末の方の係りでございますから、よく憶えておりませぬ。

(夜の御寝は、たいてい何時頃でありますか?)

五ッ半(九時)でございます。

大奥女中の俸給

(御年寄に下されるものは、月給のようなものがありますか?)

御年寄は一年の御扶持が五十石十人扶持、それに御合力金が八十両でございます。そのうち一人が、上上白男扶持で、四人が中白でございます。上と申すのは上白で、中白からは部屋部屋の者の食料でございます。そのほかに薪が十三束と、炭が八俵。更にまた銀玉と申すものがございます。

(その銀玉と申しますのは?)

それは封じたままの銀玉で、大黒の小さいのや何やでございます。目方は五百八十匁ございます。

(御中﨟は?)

御中﨟は十二石四人扶持、御合力金が四十両、薪が六束、御菜代が二両程であったろうと思います。

(その一石と言いますのは?)

蔵前の札差から受取ります米で、本当の十二石でございます。石の方は年に十二石で、何人扶持と申すのは月々にいただくので、それから菜代というのをお金でいただくのでございます。

(頂戴物だけで沢山でありましたか?少しは手許に金が余るというようなこともありましたか?)

足りないこともございませぬが、たとえば御儀式に入用の着物などを拵えたりいたしますと、互いに綺羅を張りますから、そこらがむつかしうございます。それは世話親と申しまして、旧(ふる)くから勤めておる者が親になって、面倒を見るのでございますが、その親が裕福ならまことに楽でございます。買物は掛けで、三十両かかる所は十両だけやっておいて、あとは年に十二度の御合力金の渡るたびに、払っていくのでございます。それが貧乏な親にかかりますと、なかなかそうはいかず、まことに苦労をいたします。

(買物はどうしてなさいますか?)

御広座敷には、呉服屋でも何でも好きなものが参ります。また部屋方へは、商いをする婦人が廻りますので、それが幾日も泊っていて、商いをするのでございます。反物でも何でも自由でございます。

(それはどういう身分の者でありますか?)

それは町家の家内や何かでございます。皆よい所の者ではございませぬ。中から以下でございます。部屋方に伝手を求めて出て来るのでございます。

(御台様のお衣装は、みな女が仕立てますか?)

左様、呉服の間でございます。奥の広間が役所になっております。それから御右筆は書くばかりの所で、広い部屋でございます。御右筆は上(かみ)のが十人、御台様のは五人でございます。

(その御右筆の所で日記でも附けるのでありますか?)

日記は思い思いに役所で附けるのでございます。また御広座敷という役があって、七、八人もございます。そしてそこへ表役が詰めております。それで御客会釈というのもございます。御広敷から大名方の上使だの、或いはまた御三家御三卿などの参られました時分に、いろいろ扱うのでございます。その御広座敷は奥と離れておりまして、まず大奥の表役所でございます。表の御用人などと応接をするのは御表使(おおもてづかい)でございます。表使という役は随分役に立つ人でなければいけませぬ。

(それは幾人ありましたか?)

公方様の方は六、七人もございましょう。

(御台様の方の表使は何人でございますか?)

三人でございます。役は中﨟より下がっておりますけれども、役人でございますから、役に立つ人でなければなりませぬ。

(それはどの位の扶持でありますか?)

それはやはり十二石でございます。

(女の役人は総体何人位でありますか?)

およその勘定をして見ましょう。

御年寄    七人
御客会釈   五人
御錠口前右格 二人
御錠口衆   五人
御中﨟    八人
御錠口助   十人
御次     二人
御坊主    三人
御表使    七人
御右筆    十人
御切手    四人
呉服の間   十人
御広座敷   十人
御三の間  十五人
御末頭右格  二人
御仲居    六人
御火番   十三人
御使番   十三人
御末    三十人

惣計   百七十人

大奥女中禄高

御年寄  五十石、十人扶持、御合力金八十両、一カ月薪十三束、
炭八俵、盆暮時服拝領
御客会釈 同上
中年寄  三十石、七人扶持、御合力金五十両、薪十束、
他は御年寄に同じ
御中﨟  十二石、四人扶持、御合力金四十両、薪六束、
他は御年寄に同じ
御小姓  三十両、五人扶持
錠口詰  十石、七人扶持、御合力金三十両、菜銀三両
御右筆頭 同上
錠口助  八石、三人扶持、御合力金三十両、菜銀百匁
御表使    同上
呉服の間頭  同上
御次頭    同上
御右筆  七石、三人扶持、御合力金二十両、菜銀七十匁
呉服の間   同上
御三の間頭  同上
錠口衆    同上
御次     同上
御坊主    同上
御切手  三石、二人扶持、菜銀六十匁
御三の間   同上
御末頭    同上
御使番    同上
火の番    同上
御末   二石、二人扶持

但し薪炭は現品渡し。各不同。お犬子供(各詰所に五、六人いて、御錠口以下御三の間までの雑用を達す。年齢十五六歳より二十二三歳までとす)は各局(つぼね)のあるじの合力にて傭うゆえ俸給なし。女中一統へ渡す扶持米は白米にて、雉子橋御搗屋より御広敷へ廻し、御末を経て局へ配附す。石代は勘定奉行より広敷を経て年寄へ廻し、それより各自へ渡す。目見以下は頭より割渡す。(「千代田の大奥」「大奥の女中」等より編述)

右はただ私の心覚えで、将軍様だけでございます。御台様の方も大概変わりませぬが、少しは減っておりましょう。

(その中に御目見以下というのがありますか?)

以下は御末頭とか、御三の間は御目見以下であります。

(御年寄七人の中に上﨟は何人おりましたか?)

御上﨟はたしか三人でございました。私の存じておりますのはただの御年寄が三人、お名前は滝山さん、瀬川さん、早川さん、大体が六人のように憶えております。

(大上﨟、小上﨟というのがありましたか?)

左様でございます。私のおりました頃には小上﨟と申すお方がいらっしゃいまして、十歳位でお勤めでございました。皆お公家様の御息女でございまして、飛鳥井(あすかい)さんとか何とか、通り名がきまっていたようでございました。姉小路さんというお方は、慎徳院様の御逝去の後まで、一人残ってお在(いで)になりました。

(その名は自分の生家(さと)の苗字でありましたか?)

左様ではありませぬ。こちらにも通り名がありまして、上(かみ)より下さるので、上﨟年寄になりますと、飛鳥井とか姉小路とかいう名を頂戴するのでございます。

(十歳くらいの上﨟がおられたのですか?)

それは今申しました小上﨟の方でございます。御用をなさるのは御年寄で、お若い方は御中﨟と同じようなことをしておられます。むつかしいことはなさりませぬ。また御代によって小上﨟は、あることもないこともございます。

(名前は身分によってきまっておりましたか?)

左様でございます。御上﨟の方は只今申した飛鳥井とか姉小路とかの三字名、御年寄の方は滝山とか瀬川とかの二字名、お婢(はした)は源氏名、御使番も源氏名で、御末頭はおの字が附きます。あとはみな紅梅さんとか何とか申すのでございます。

(只今お話の人の中に、会計を司っている人がおりますか?)

御表使が何事によらず調べましたのでございます。

(その役は得分(とくぶん)がありましたか?)

それは向き向きによって随分役得のあるのもございましょうが、まず御表使と御右筆が一番よりのでございました。また御客会釈も得があったと申すことでございます。しかし御右筆が最もよろしいのでございました。

(いろいろの物を購うことを注文するのは、御表使でありますか?)

いえ、御表使はもう少し大きな役目で、そんな小さいことではございませぬ。たとえば、どこの役所で箒が幾許(いくら)とかいうことを書きつけて、表使から御広敷御用人の方へ伝えますと、すぐに御用人から表役人の方へ言ってやって買い調えるのでございます。

大奥と政事

(それでは御右筆はどういう時に、大名から遣い物があるのでありますか?)

私は御右筆の方は存じませぬが、やはりお願い筋のある時に、賄賂のような塩梅がございました。

(その賄賂というのは、何か政事向きのことについて、奥から表へ願いごとのような場合ではありませぬか?)

政事向きのことではございませぬ。御表のお役替えのことなどには、口を出すことは出来ませぬ。ただ姉小路というお人は直(じき)に何か申上げたことがあったり、政事向きのことにも口を出したそうでございます。なかなか強いお人で、とにかく一枚絵になって町へ出されたくらいのお人でございますから。

(いつ頃のお人でありますか?)

慎徳院様(十二代将軍家慶)の御代(天保八~嘉永六)でございます。慎徳院様の御他界の時に、比丘尼になったお方でございます。

(その前の十一代の文恭院様(家斉)の時に、御年寄の中で利(き)け者は、何というお人でしたか?)

その時分の上﨟で評判のあったお人は、よく憶えておりませぬが、まず姉小路くらいの人は、前後にございませんようでした。あのお人のことは、私共が申しませんでも、誰でも御存じでございますが、姉小路が比丘尼になりましたのは、三十四、五でございました。最初から御年寄に上がったお人で、西京からお出でになったお方でございました。

(大奥にも御客来がありましょう?)

ございます。御住居(御守殿。将軍家の姫君にて諸侯に嫁した女性をいう)の姫君様方が年に一度ずつの御登城がございました。そのほか田安、清水、一橋、阿波様などもお通りでございました。

(御三家だの御家門だののお方もお出ででしたか?)

水戸、紀州、尾張の御三家の方は、滅多には奥通りはございませぬ。私の勤めております時は、御内縁がございませぬから尚更でございました。田安様と一橋様と阿波様などのお通りがございました。三河様もいらっしゃいました。田安様のお子様も折々いらっしゃいました。

(譜代の大名のお通りはありませぬか?)

お大名のお通りはございませぬ。お大名でも、御年寄が少し引っかかりのあるところは、正月に一度参られますが、これは御広座敷限りで、お料理を頂戴して帰られます。姫君様の御年寄だけは、毎朝と申しまして、毎朝御機嫌を伺いに出ますのでございます。

大奥と御表

(先刻、姉小路という御年寄が、政事向きに口を出したということがありましたが、それには大奥に仲間が出来るということは、党派が出来るということはありませんでしたか?)

御自分ひとりの考えでなすったことでございますから、附属した者もありませぬが、姉小路の部屋に使います局(つぼね)などは、いろいろなお取次をしたりしていたという話でございました。お大名から菓子折が来たということですが、その菓子折の中に金(かね)が一杯にはいっていたということでございます。

(そういうことがありますと、御表と軋轢(すれ)るというようなことはありませんか?その事のみならず表と奥と軋轢るということはありませんでしたか?)

別に表と軋轢るということはございませぬ。何事も奥は表に勝つことは出来ませぬから。ただこれではお為にならんということで、申せば申すだけのことでございますから、表と軋轢るということはございませぬ。

女中の生活

(お女中は自分自分で大奥に一家を持っているようなものでありますか?すべてかまどを持っていたのでありますか?)

左様にございます。部屋に合部屋というのがございます。二階に二人、階下(した)に一人おるとかいたしまして、みな部屋方(へやかた)(下婢)を使っているのでございます。

(御中﨟などは幾間くらい持っておりましたか?)

上(かみ)の間というのが九畳か十畳ございまして、広い部屋でございます。それから次の間というのがございました。御年寄の二階なども随分広うございまして、やはり九畳か十畳はございました。それが上の間で、次の間が六畳位でありました。召使のおります所は次の間でございます。

(御中﨟などは幾人くらい使いますか?)

四人使います。わたくしは御次の間を勤めましたが、二階の合部屋に三人ずつ、都合六人おりました。階下(した)にも五人位おりましたが、そんなに狭いとも存じませぬ。それは賑やかなことでございました。二階は燈(ひ)の気が少しもないので真暗でございます。

(夜は燈を置かずに、二階も階下も暗いのでありますか?)

二階は暗いのですが、階下は明るいのでございます。若い者ですから火鉢にこびりつきもいたしませぬが、線香の火もないのですから少し困ることもあります。

(合部屋はどうしてもそれだけ人を容(い)れんければならんのですか?)

左様でございます。部屋が足りませぬから容れますので。しかし好きな人と合部屋にするということは出来ませぬ。

(冬は火鉢だけでありますか?)

階下には火鉢でも炬燵でも何でもございます。寒い時は、階下へ降りてなさいと言われますから、階下へ降りていたします。

(食事はいかがでありますか?)

次御用達ちうのがございまして、部屋方(奥女中達の使用人)がそこへ買いに参ります。牛蒡を三本買いますにも、三方を持って買いに行くのでございます。

(お気に入りの御中﨟がありますと、それに使わるる者達で、党派のようなものは出来ませんか?)

左様なことはまずございませぬ。何しろ一軒の合部屋でございますから、何でも評判のないということはありませぬが、党派のようなことはございませぬ。

江戸城火災

(江戸のお城が延焼の節に、奧女中を移す用意がなかったために、焼け死んだ者が多かったということですが、そういうことがありましたか?)

私共が勤めておりますうちに四度焼けましたが、奥女中の焼け死んだことはございません。そのことは私がまだ御奉公に出ませぬ時分に、御本丸が焼けました時のことでございます。何でも姉小路さんの湯殿から出ました火事で、十人から死にましたそうでございます。

(それは他へ移す用意がなかったからですか?)

申さば奥と表との境は銅でございます。非常口が所々にございます。それに錠が下りておりますから、手が廻れば早く開けられますが、手が廻らなければ開けることが出来ませぬから、死ぬかも知れませぬ。また立帰って所持品を取りに入るとかいううちに焼け死ぬのでございましょう。辰年(弘化元年)でございました。ちょうど私の十五の時でございます。私の覚えました火事には、人の死んだことはございませんでした。

将軍のお成り

(将軍家は大奥へ参られても、かなり窮屈であられたと伺いましたが、どういう様子でありましたか?)

左様、まず御表からいらっしゃると、御錠口限りで女の掛りになります。それから御小座敷へお入りあそばして、そこでお菓子も召上りますし、また御奥御膳もそこで召上ります。御台様は御台様で、時がきまって、あちらからいらしって、そこでお逢いになるのでございます。折に触れると、日に一度とか二度とか松の御殿へいらっしゃる時は、むこうから前触れの御次が参りまして、御成りと触れます。そうすると、こちらでチャンとお支度をしているのでございます。それは日に一度とはきまっておりませぬ。総触れというのはきまっております。朝十時に御鈴廊下へ入って、そこで御機嫌伺いをいたしますので、御台様の方からいらしったり、御腹様(おはらさま)なりがいらしって、一同お目身をいたします。それを朝の総触れと申すのでございます。昔の四ッ時でございます。

(それは毎日でございますか?)

左様、毎日でございます。しかしながら天璋院様は、公方様(十四代将軍家茂)の方からいらっしゃるのでございます。そこは親御様でございますから、大層違います。

(総触れの時は、ただお辞儀さえすればよろしいのですか?)

左様でございます。皆揃って出まして、お辞儀さえいたしますれば、公方様は中奥へお帰りになるのでございます。それから昼過ぎの八ッ(二時)は御成りがございますが、その時はおゆるりと奥においでになるのでございます。

(それも毎日でありますか?)

左様、それから夜の五ッ(八時)にまた御成りになるのでございます。朝の総触れにはお袴でございますが、八ッの総触れにはお着流しでございます。

(その時はいろいろお話でもありますか?)

左様、おうちくつろぎでございます。

(そうして夜の御成りは?)

これもまたおうちくつろぎでございますが、直(じき)に御表へ入らせられるのでございます。

(奥で御寝(ぎょし)はございませぬか?)

御寝の時には宵に御沙汰がございます。奥で御寝になります時は、御小座敷に御寝になるのでございます。

(その御沙汰は誰が伝えるのでありますか?)

伝える者は御錠口番の女でございます。

(御表から御錠口へ伝える人は誰でありますか?)

御表の人は誰が伝えるか知りませぬ。いずれ御側近い者から御沙汰がありましょう。

(箕浦)私の方は天璋院様の方でございますから、総触れ召しと申すと、お掻取(かいどり)でございます。総触れまでにはお起こし申して、お結髪(ぐし)も出来て、お湯も召して、すっぱりお支度が出来ております。

(その総触れの時の間は、どのくらい広うございますか?)

そこは六畳の間と申して、六条と入側が八畳に、奥殿が十二畳位でございます。

(そこは何人位の人数がはいりますか?)

天璋院様は六畳の間の内にいらっしゃるのでございます。将軍様御台様御夫婦がお座りになる時は、御敷居の中で、お褥(しとね)もないようでございました。そのとき将軍様の御腹があれば、御敷居の外に座ります。それからこちらに御年寄二人、御中臈と御小姓が座るのでございます。そこへ将軍様がいらっしゃれば、座ったなりにお辞儀をすればよろしいので、それから御両人様もお辞儀をなすって、お立ち遊ばすのでございます。

(天璋院様の新御殿に御上段の間がありましたか?)

ございましたが、御上段の間にお上り遊ばしたことはございませぬ。いつも綺麗に掃除をして、あけておりました。

(将軍家が奥へいらせられて御寝になる時は、毎日三度ずついらせられる場所へ御寝になるのでありますか?御寝間は別にありませぬか?)

別にはございませぬ。御小座敷の御上段でございます。

(ほかに広い間があっても、御小座敷へ御寝になるのでありますか?)

御小座敷は将軍様の奥の御住居でございます。一間だけではございませぬ。幾間もございます。

(すると、先ず表向が御小座敷でありますか?)

左様、表向は御小座敷が将軍様の御座所ですが、御膳も御奥御膳となれば、そこで召上るのでございます。御夫婦御一緒に召上るのでございますが、それは毎日ではございませぬ。

(お泊りの時はいかがでありましたか?)

お泊りの時は、御台様へ御沙汰があって、それから奥で御寝になりますと、御間取りなど、また嵌(は)め外しなどが違いますから、それぞれ支度をいたすのでございます。御台様の方は、お供を三人お連れ遊ばして、御小座敷へいらせられます。そして上(かみ)と御寝になりますと、お供の三人は御下段なり、お次の間なりで、御香をいたすのでございます。それから御明(おあき)の御中﨟(おちゅうろう)は、やはり宵のうちに、今夜は御奥泊りがあるというので、いろいろ支度をいたしまして、部屋から出て来て、すぐに御小座敷へ参りまして、御寝所へはいるのでございます。

大奥での酒盛

(お酒盛(さかもり)はありませぬか?)

公方様とは滅多に御一緒の御膳はありませぬが、たまにはございました。しかし御酒(ごしゅ)はあがりませぬようでございました。

(御酒は毎日附いてはおりませぬか?)

左様、十二代様(家慶)はなかなかの御大酒でございましたが、余のお方はそうではございませぬ。それでございますから、慎徳院(家慶)様はお酒盛のとき私どもへ、甘いのがよいか辛いのがよいかと仰しゃいますので、甘いのと申上げると御機嫌がわるうございますから、辛いのと申上げますと、お燗鍋で、お手ずからお注ぎ下さるのでございますが、それが大きなお吸物椀の蓋などでお受けするのでございますから、ザアッと強くお注ぎ遊ばすと、モウあなた、袂の中までも流れ込むのでございます。それがまた大層お慰みになるのでございました。慎徳院様はそういうお方でございました。

(着物などが濡れますと、すぐ新しいものを下されますか?)

そうはいきませぬ。

(お女中はいっさい酒など飲むことは出来ませぬか?)

いえ、皆いただきますが、三十歳を越さなければいただきませぬ。けれど、お上からいただく時はいただきます。

(将軍家には必ず晩酌が附くというきまりがありましたか?)

奥で御台様と御一緒に御膳の時は、御酒の附く時もございますが、必ずというきまりはございませぬ。御酒は御膳酒と申して、真っ赤な御酒でございます。嫌な匂いがいたしましてね、あれも幾年も経った御酒でございましょう。

(十二代の将軍家は御大酒であっても、やはりその酒で我慢なされたのでありますか?)

左様でございます。通常(ただ)の御酒を召上ったのは慶喜様ばかりでございます。

(中奥で御酒を召上ることはありませぬか?)

それは召上ることもあったと御小姓が言われました。

十三代家定

(奥へのお泊りは度々ありましたか?)

私の勤めうちは、ずいぶん度々ございました。

(佐々氏)私はその節、右大将様(徳川将軍世継の定位。ここでは十三代将軍家定をさす)の御傳(おつき)でございました。十三代様は余りお好みがございませぬから、お泊りが遠うございました。月に一度あったり二度あったり、余程遠いのでございます。御中﨟もたった一人お気に入ったのがございました。

(十三代公は御癇癖があったそうですな。)

左様、御癇癖がございました。しかし余り困るようなことはございませぬ。ただお首を振る癖がおありになりました。しかし御能の時に、お素面(すめん)で翁を遊ばした時に、慎徳院(十二代将軍家慶)様が、癖を出してくれなければよいがと仰しゃっていましたが、御癇癖も出ずにお勤め遊ばされ、大層御満足でございました。観世銕之丞へ御褒美をお遣わしになったそうでございます。慎徳院様の御不例の時には、西の丸から日々お出でになりまして、御看護あそばしたのでございます。それについておかしいことがございました。御自分様でお粥をおつくり遊ばして、その中へじかに指を突っ込んで、程よい温かいところをおあげになりまして、慎徳院様様が召上る時は、御自分様は障子の穴から覗いていらっしゃったのでございます。あの時分は多紀がお薬をさしあげておりまして、お水をさしあげては悪いと申しましたが、御自分様ならさしあげてもよいとおっしゃって、お水をさしあげていらっしゃいました。

将軍・御台所の言葉遣い

(将軍家のお言葉は、どういう風でありましたか?古書で二代将軍のお言葉を見ましたが、「おじゃる」というようなことがあったようですが、やはりそのようなお言葉でありましたか?)

御自分様のことを「こちら」と申されました。

(御附の方の言葉は、やはり遊ばせ言葉でありましたか?)

左様でございます。

(下方(したがた)で使っている遊ばせ言葉と同じでありますか?)

左様でございます。将軍様は御自分様を「自分が自分が」と仰しゃったこともございました。

(御台様は何と申されましたか?)

御台様は「わたくし」と仰しゃいました。「わたくしは嫌じゃ」とか「好きじゃ」とか「ああじゃ、こうじゃ」と仰しゃったのでございます。公方様は「いやだ、好きだ」と仰しゃって、別に通常の言葉と変わったことはございませぬ。

(あなた方が御台様に何か仰しゃる時は、何と言われるのでありますか?)

御前(ごぜん)と申します。

(将軍家には?)

上(かみ)と申します。このお湯取は上のであるとか、上の御薬罐であるとか申すのでございます。

子の養育

(お子様の方の御養育の様子はいかがでありますか?)

あいにくお子様方は、お一と方もいらっしゃらなかったのでございますから存じませぬが、ただ慎徳院様にお姫様が一人お出来になりましたが、早く御逝去になりました。そのお姫様の御抱守(おだきもり)がおりましたが、上(かみ)に準じまして、御附も御右筆は二人位はおりました。しかしその後はお子様がございませぬので、その辺はくわしくは存じませぬ。

御台所の日常

(御台様や天璋院様は、毎日どういうことをして、日をお暮しなさいましたか?朝のお目覚めは何時頃でありましたか?)

朝は六ツ半(七時)のお目覚めでございます。御年寄がお目覚めを触れますと、それから御三の間から部屋方に触れるのでございます。「六ツ半時お目覚めお目出度うございます」と言って触れるのでございます。

(みな六ツ半でありますか?)

左様、きまっておりました。

(まずお目覚めになると、第一にどういうことをいたしますか?)

お目覚めになりますと、まずおみ嗽(うが)いがありまして、お鉄漿(かね)をおつけになり、お湯を召すのでございます。天璋院様は毎朝お湯をおかかしになったことはございませんでした。

(朝お湯を召さぬお方がありましたか?)

宮様(和宮)は月に一度位でございました。

(その余のお方は?)

一日置き位でございました。お湯を十日も召さぬお方はいないようでございます。

(お湯は朝にきまっておりましたか?)

私などは朝でございました。また夜もございます。お泊りの時は夕方お召しになって、その翌朝もまた召すのでございます。翌朝は御明(おあき)の御中﨟も、早くお湯を使いに帰るのでございます。

(時をかまわず、お好きな時に湯を使うというようなことは、出来ぬことでありましたか?)

それは御隠居になれば御勝手でございまし。

(御隠居様でない時は?)

御台様は間に御成り御成りがありますから、なかなかお湯を召していらっしゃることは出来ませぬ。夏は御台様でも屹とお行水がありました。

(お風呂は白木でありますか?)

杉の糸目でございます。おつかりと申して、お盥(たらい)の大きな丈(せい)の高いのがございまして、それから御湯溜、御水溜と申して、大きいのがございます。お風呂へ掛けます麻の大きな布(きれ)がございまして、それで漉(こ)して、召し加減にして、お召しになるのでございます。お桶の形は円(まる)でございます。そのお湯は御末(おすえ)が御湯殿口まで担いで参りまして、御三の間で受取って召すのでございます。

(お湯の時にお附き申している人は?)

それは御中﨟でございます。何も彼もしてさしあげるのでございます。

(お風呂の杉の糸目はわかりましたが、たがは何でありましたか?)

竹でございます。これは一年限りでございます。

(お湯が済みますと?)

お仕舞い遊ばすと、朝御飯を仰せ付けられるのでございます。そして御膳を上げますのは五ッ(八時)という時分でございます。

(お湯がすむと、すぐに御膳でありますか?)

いえ、結髪(おぐし)があって、それから御膳、それからお召替え、それで総触れをお待ち遊ばすのでございます。

それが済んで奥の御仏壇に御拝があります。これは上(かみ)の御拝があった後でなければ、御拝は出来ませぬ。それが御済みになってから、お昼のお召替えがございます。

(それが済みますのは何時頃でありますか?)

御拝が済みますのは早くて十一時でございます。お昼はお掻取(かいどり)はなく略すのでございます。

(それでたいがい朝のことは済みますか?)

左様、天璋院様は御自分様のお住居に、温恭院(十三代将軍家定)様のお清の間がございますから、その御拝を遊ばしていらっしゃるうちに十二時でございますから、お昼食を召上るのでございます。それが済みますとお机にいらっしゃるのでございます。

(お机にいらっしゃるのは、お看経(つとめ)でありますか?)

いえ、私共は部屋に入っている時は、大抵机に向かっております。机を離れている者は余りございませぬ。

(御覧になる本などは御随意ですか?)

私などは部屋におりますと、稽古事がございます。

(部屋にいらっしゃる時は御中﨟などと、四方山のお話がありますか?)

それは朝晩と、随分お話もございます。

(天璋院様の御附は幾人位でしたか?)

天璋院様の御附は御年寄が五人、中年寄が三人、中﨟頭が一人、そのほかでございます。御台様附の中﨟は掻取で、公方様附の中﨟は帯付きでございます。

(掻取と申しますのは?)

下方(しもがた)でいううちかけでございます。

(始終お側にいる者は?)

御年寄、中年寄、中﨟というような者が、お側におります。

(将軍家の方の中﨟は、閑暇(ひま)でございましょう。)

それは自然閑暇でございます。それでも上がいらせられますと、いろいろお支度もございますから、まんざら閑暇でもございませぬ。

(そうすると御台様は、お食事後などはお机に向かっていらして、いろいろお側とお話でもありましたか?)

それはただお座所にいらっしゃる時ばかりでございます。

(お庭などは?)

御自分のお庭がありますから、そこへお出になるのでございます。

(そういうことは規則のようなものがあったのですか?お食事後には御随意に出来るわけであったのですか?)

左様、御随意でございます。

(お慰みは?)

千字文、伊勢物語などを御覧になりまして、お歌留多(かるた)などは百人一首などでは、とても足りませぬ。

(午後はどういう風なお暮らしでありますか?)

八ッ(二時)の御成りまではお閑暇でございます。その間は御学問もありますし、御隠居様におなり遊ばしてからは、お謡がお好きでございました。

(八ッ後には?)

毎日きまってどうということもございませぬ。お側の人でお細工をする人はお細工をしております。誰でもみなお細工机を持って居ります。また何も出来ませんものでも、双六などは練習して参るのでございます。

御台所の食事

(朝のお食事はどんなものでありますか?)

御精進日が月に幾日もございます。御精進日でなければ朝からお魚でございます。朱塗りのお懸盤で、二の膳附きでございます。余の者は春慶塗りのお三方(さんぽう)でございます。御本膳は御飯におみおつけに、お平、お腰高、お膾皿(なますざら)でございます。お二の膳がお豆腐なり、お鶏卵(たま)なりのお淡汁(つゆ)が附いて、そのほかに鯛か魴鮄(ほうぼう)のお焼物はぜひ附きます。それに前にお置合わせというのが、お口取りのようなものでございます。朝はきっとお豆腐のお淡汁(つゆ)がございました。

(お手のつくのは幾品くらいでありましたか?)

御飯は目方を掛けて差上げます。お肴などは一と箸なり二箸なりむしって差上げますと、それを一と箸なり召上がって、すぐにお替わりを差上げるのでございます。

(肴はむしって差上げたのですか?)

左様でございます。お肴のお替りの時は、御間を隔てて、中﨟衆が持って参られますと、私(佐々氏、役名は取次)が受取って、御膳所へ持って行って取替え、また持って行くのでございます。

(お肴などは本当にうまく熱くなっておりますか?冷えておりましょう。)

そうでもございませぬ。公方様の方は冷えているのかも知れませぬが、御台様の方は、中年寄が試食(こころみ)をいたすのでございまして、何でも始終煽いでおりました。

(それでも、汁などは冷えておりましたろう?)

いえ、ちゃんと御膳所に火鉢があって、始終あたためて差上げたのでございます。ただ公方様の方は、いつもぬるいぬるいと仰せられていらしたそうでございました。しかしそうでもございますまい。よく公方様はあったかい物は食べることは出来まいなどと申しますが、左様ではございませぬ。もっとも御膳部の方で始終うちわで煽いでおりましたから、それで冷めてしまうのかと思いますが、まさかそうでもございますまい。

(そうすると、朝お召上がりになるお肴は、ほんの僅かでございますね。)

左様でございます。うま煮とか水貝とかいうもので、お好きなものを御中居の方の御膳で拵えて差上げますのを、よく召上るのでございます。御表の方から煮て参るものは九盛(ここのもり)ございますが、そのうち二た通り位しか召上りませぬ。御表の御料理は、まことにおいしくございませぬから。

(皆おなじ御膳につきますか?)

左様でございます。

(お替わりのあるのは御表のでしたか?)

いえ、奥のでございます。きまりでお替わり分も差上げてしまうのでございます。それはみな奥の人がいただくのでございます。御表からの九盛も二盛召上げれば、そのお残りは御年寄とか御中﨟とかが皆いただくのでございます。

(魚などが出ますと、表の方だけで、裏の方をひっくり返して召上るようなことはありませぬか?)

決してそういうことはございませぬ。表の方も、半分も召上りませぬ。一と箸か二箸でございます。

(むしって差上げるのは、同じ皿の上でむしって差上げるのでございますか?)

はい、少しむしって、そのお魚の上にのせて差上げるのでございます。

(それを食べてしまわれて、お気に入ると、また次の御膳のを、むしって差上げるのでございますか?)

左様でございます。

(肉類は召上りましたか?)

肉は余りございませぬ。鳥肉は召上ることがございます。鶴や何かでございます。

(それから昼はどういう風でありましたか?)

二度目はお二の膳附きで、三度めはお二の膳はございませぬ。おもに夕方に多く差上げるのでございます。

(昼と朝とはどういう違いでありますか?)

同じようでございます。

(お献立に違いはありませぬか?)

やはりおみおつけが附きまして、同じようでございます。

大奥の精進日

(精進潔斎の時は、大奥とか中奥とかに、御式所がありましたか?)

紅葉山(霊廟のある所)へ御参詣の時は、前日から大奥へはいらっしゃいませぬ。

(御精進の日は幾度もありましょうが、その日は朝だけが御精進でありますか、昼もありましたか?)

暮れ六ッ半(午後七時)まででございます。

(その時は必ず奥にはお在(いで)になりませぬか?)

左様、御表でございます。

大奥の健康管理

(御台様が御不例の時は、やはり男の御医者でありますか?)

左様でございます。御不例でなくとも、月に何回といって出るのでございます。

(毎日診察をなさいますか?)

公方様は毎日で、御台様は月に六斎くらいでございます。

(診察の時刻は?)

触れ過ぎでございます。

(将軍様の御不例の時は、中奥で御寝になりましたか?)

私の存じておりますのでは、慎徳院(家慶)様は御表の御座所で御不例になりました。温恭院(家定)様はちょうど宰相様(紀伊慶福、後の家茂)のお広めの時でございまして、お広めが済んで、松の廊下から人につかまってお出になるくらいで、御小座敷でお仆(たお)れになったのでございます。昭徳院(家茂)様は大坂のお城でございました。

御台所の衣服

(衣服のことを伺いますが、御台様のお着物は何でありましたか?)

元日は白綾の御装束でございます。大打着に緋の袴でございます。桧扇を持って、お髪(ぐし)は元服後はオスベラカシというのでございます。お冠はございませぬ。

(お装束を上げる人は誰でありますか?)

お側にいて御用をいたすのは御中﨟でございます。

(成程。して、それからのお召替えは?)

その次は綸子(りんす)の綾で、緋の紋縮緬に、緋綸子の間着(あいぎ)。お地白(じしろ)という白の綸子に模様縫いのあるお掻取(かいどり:裲襠(うちかけ)のこと)でございます。お帯も縫いのある帯でございます。それから三度目のお召替えとなりますと、紋縮緬の緋のお間召(あいめし)で、緋の二つ着でございます。上(うえ)は紫なり浅黄なりの縮緬で、これは総縫いでございます。四度目お召替えとなりますと、縫いなしの総模様でございます。

(お召替えには規則があるのでありますか?)

左様でございます。お式が済むと、緋の袴をお取りになって、お掻取になるのでございます。一日に幾度もお召替えになるのでございますが、取分け元日などは、お楽になるまでは四度か五度お召替えをなさいます。平常(へいぜい)もお朝召、お昼召、お夕方召、お寝召(ねめし)とお召替えあそばすので、式日は尚更でございます。

(平常のお召物も、今のように一々違うておりますか?)

たいがい綸子のようなものをお召しになります。朔日(ついたち)、十五日、二十八日の総触れの時は、綸子でございます。平常の総触れの時は、只今申したような縮緬の縫いと模様になりますので、それが済みますとお昼召になりますので、縞の紋縮緬か、紫に紅(もみ)裏が附いておりますのを召します。お夕召になりますとお白が一つ、お召が一つくらいで、綿の入ったのが二つくらいでございます。寒い時はお被布というものを召します。

(羽織は召しませんか?)

羽織は召しませぬ。お昼召は縞のことがございました。総触れ召しという時は、裾模様でございました。お被布は紋縮緬が主でございました。お色は紫、萌黄、黒などが多いようでした。御紋はお菊でございまして、花紋地というので三紋でございます。裏は絞り放しが附いておりました。

(御台様のお簪(かんざし)はどうでしたか?)

花笄が一本でございました。平常は片外(かたはず)し一本でございます。

(最初に下に召すものは何でありますか?)

お寝召(ねめし)まで白が重なるのでございます。

(帯は前で結ぶのですか、後(うしろ)ですか?)

掻取の時、お元服のあとは前帯でございます。眉のあるお方は後帯(うしろ)でございます。

(帯の寸法、綴じ方などには構いませぬか?)

帯は七寸幅でございます。それから眉のある方は眉墨を入れるのでございます。それから夏は附々帯でございます。夏は派手な辻模様と申して、これにはお地白、お地黒もございました。麻の越後縮(ちぢみ)とか晒(さらし)もございました。

(袷(あわせ)の時はどうなりますか?)

袷は全体略服でありまして、附々帯をいたしますと、腰巻(上流武家の女性が礼装の場合に、上着の両袖を脱いで後方に刎ね、ただ腰に巻くのみの着方をいう)がございますから、それが袴のつもりでありますから、附々帯をいたしますればよろしいというのでございましょう。

(御節句の時は、お召物が変わりますか?)

変わります。式日でございますから、真の綸子の縫いのあるお裲襠(うちかけ)でございます。

(三月の節句には桃色のお召物をお召しなさるということがありましたか?)

三月召は異なっておりました。桃色ではございませぬが、お間白(あいじろ)と申して御紋なしで、綸子に紅裏(もみうら)でございました。白の重ねで、その上に紫の綸子に模様のお裲襠でございました。

(桃色の御召というのは無いのですか?)

桃色もないことはございませぬが、三月に限ってではございませぬ。

(単物(ひとえ)と綿入と交替の時節はいつ頃でありますか?)

五月の五日から麻になります。それから八月の三十日まで。九月一日から八日までが袷着で、九日から間白(あいじろ)になります。

(それでお召物ははどのくらいの期間、お召しになるのでありますか?)

左様、一年に一度ずつ暮れには御納戸(おなんど)払いということがございます。みんなが皆お払いになるわけではございませぬが、随分多人数の御附が頂戴いたすのでございますから、数は余程のことになります。お装束などは年々御新調になる物でもございませぬが、平常のお召物は年々出来ますから、おすべりと申しまして、御附が頂く中にも甲乙はございますが、なにがしかずつ頂戴いたすのでございますから、随分たくさん御新調になるわけでございます。

(幾度くらい召してから、お下(すべ)りになりますか?)

幾度くらい召しましたか存じませぬが、お朝召からお昼召、お夕召、お寝召と、一日に何度も替わりますから、お肌着などはその度に残らずお召替えになります。地白とか羽二重のようなお召物は、たいがい半年はお召しになるようでございます。しかし始終変わって召しますから。

(その一つ一つが廻り廻って、幾度くらい召すのでありますか?)

数が沢山ございまして、日に幾度も替わりますから分かりませぬが、御新調のものはたいがい半年位はございます。

(お寝召はどのようなものでありましたか?)

お寝間着には、緋縮緬と白のお湯巻が附いておりました。

(おすべりの時に垢はついてはおりませぬか?)

垢などはついておりませぬ。清潔(きれい)でございます。

(襦袢だの肌着などは、日をきめて着替えるのですか?洗濯するようなことはありませぬか?)

お洗濯ということはございませぬ。毎日お取替えになりますのでございます。

(お足袋もお穿き捨てでございますか?)

左様でございます。御台様は当然のことながら、御年寄でも滅多に余所へお出になることはありませぬから、沢山は入りませぬ。私共もたまに御用ででることもございますが、お宿下がりは御奉公に召出されましてから三年目に、六日だけのお暇が出ます。二度目の三年目には十二日、三度目に十六日と、三年目三年目にお暇を頂戴いたしますが、自分の都合が悪ければ願いませぬ。

(お履物は?)

下駄はございませぬ。京草履というのがございます。お庭下駄はございます。

(夜具の一番下に被るものは、お流しになるまでには、幾日位お用いになりますか?)

幾枚も積んでございまして、中年寄が取替える役でございましたが、幾日位でしたか分かりませぬ。

(蒲団は羽二重でありましたか?)

お蒲団は下に敷いてありますのが緞子(どんす)で、真中が浅黄縮緬、一番上が周囲(まわり)が緞子でございまして、紅羽二重か何かでございました。御牀畳(ごじょうだたみ)の上に三つ重ねてありました。

(御清(おきよ)の時は、御台様は御飲食に変わりはありませぬか?)

紅葉山の時は、別段にお身装(みなり)に変わりはございませぬ。お食事も変わりませぬ。御精進の時は御精進だけでございます。ただお体が月の穢れがありますと、御対面もかないませぬ。そのお知らせがございます。御奉公人でも体の穢れたものは慎みでございます。

三月の節句

(三月の節句に、雛はたくさん飾りましたか?)

左様でございます。随分たくさんでございました。御対面所の雛段などは、大変なものでございました。何カ所も飾りました。方々に飾るに一週間くらい掛かりました。御対面所の雛に限って、下方の者を入れて見せました。

(お雛は年々新しく拵えるのでありますか?)

左様ではございませぬ。旧(ふる)くから伝えてきたものが多いのでございます。

(奥への御献上物はありましたか?)

折り折りはございました。御縁引きから一日に幾度も幾度も肴などが、台積みとか申すのが行ったり来たりいたしまして、方帳(はいちょう)の中に入れたまま、こちらから贈ったものが、ぐるりと廻って、こちらへ戻って来たりして、今日はこの肴が二度来たというようなことが、度々ございました。どんな結構なもんでも、他から来たものは上がりませぬのでございました。

大奥の人間関係

(御台様と汚れた御中﨟との間に、喧嘩のようなことはありませぬか?)

そういうことはございませぬが、御附の心持の好くないことはございます。御台様の方へはお泊りが遠くて、御中﨟の方へばかりお泊りがございますと、御附が各々(てんでん)に嫉妬を起こしますのは人情でございます。御台様の方に多くお泊りになれば、心持よく思いますのは当然でございます。ただむき出して喧嘩などということはございませぬ。

(慎徳院様のお気に入った御中﨟と姉小路さんと、口を合わせたろうというようなことはありませんでしたか?)

無いということもございますまいが、たしかにこうということは申されませぬ。

皇女和宮

(公方様(十四代家茂)と和宮様との間はどうでありましたか?)

お仲は悪いことはございませんでしたが、御婚礼の時に鏡を懐ろにしておられましたのを、懐剣を持ってお出ましになられたなどと取沙汰をいたしましたが、そんなことはございませぬ。まことに畏れ多いことでございますが、その時分は西京の方をよろしく思いませんでしたから、口さがない部屋方などが悪口を申しましたのが響きまして、天璋院様との間がよろしくございませんで、天璋院様は二の丸に引き移られましたから、嫁が来て姑を出すのは奇体だなどと申しましたが、それは一時の悪口でございます。それに内親王の位でいらせられますゆえ、こちらでお待ち受けのお道具もすっかり揃っておりましたのに、それを召さずに、あちらからお持ちになった品ばかりお用いになって、こちらのをお用いがなかったので、一時折合いが悪かったのでございます。

(和宮様のお髪はどうでしたか?)

お童(わらわ)でございました。押下げという御様子で、昼の総触れの時は、お髪は下げ下地というような、下から巻いたような格好でした。お簪とお笄でございました。

大奥と政事

(阿部伊勢守の後に井伊掃部頭が大老になりましたのは、将軍家の思召しによったのですか?何か御評議でもありましたか?)

御表のことは存じませぬが、まず公方様の思召しだろうと思いますが、その辺はわかりませぬ。

(御老中が大奥へ通ることはありませんか?)

ございませぬ。瓦解の前に、昭徳院(十四代将軍家茂)様の二度目の御上洛の時に、先には陸(おか)をお出になりましたが、二度目は蒸気船で御進発になることで、天璋院様が蒸気船などに召しては危ないことであるとお案じなすって、どうか蒸気船は止めたらよろしかろうと仰しゃいましたが、なにぶん老中が承知いたしませぬというので、それでは私が逢って話しましょうというので、老中をお召しになって御面会なすったのが初めてでございます。御対面所でお逢いになりました。小笠原図書、久世大和守とその他二人と都合四人でございました。そのとき危険だということを仰しゃったそうですが、決して危険のことはございませぬ、陸を行くより剣呑(けんのん)ではないと申上げ、天璋院様も御承知になりまして、それについていろいろ政事のお話があったそうでございます。お話が済んで小笠原図書が御広敷に下がって、女性(にょしょう)のようではいらっしゃらんと、大変お褒め申したということでございます。天璋院様の御一代の美談は余程ございます。平素のお規律の正しいお方でございまして、お側にある物は烟草盆なり何なりお置きあそばす所は一分一厘も違わぬように、寸法を計ったようでございました。きまり通りにしておくと、お心持がよかったのでございましょう。なかなか御気象があらっしゃいました。

(天璋院様は、御酒がお好きでありましたか?)

左様でございます。しかし御寝前でなければあがりませぬ。私共は扱います役でございましたが、時々御相伴もいたしまして頂きましたが、お酌で沢山いただいて酩酊いたしたこともございました。

(掃部頭様とか水戸様とかの評判はどうでありましたか?)

掃部殿は評判のよいお方でございました。桜田一件の後に部屋の者をお寺詣りやりました。奥の方では、あのお方は昭徳院(家茂)様を大切に思って、骨を折って下さるお方だと存じておりました。評判は水戸様の方が余程悪うございました。

(あの時分に評判の好かった人はどんな人でありましたか?)

どうも表の役人を、奥で評判の仕様もございませんから存じませんが、あの時は掃部殿は、昭徳院様の御元服のお祝を申上げてから、邸へ帰って御能をなされました時、鼓が裂けましたそうで、そのとき掃部殿は、これは上のお身の上に何か凶事がなければよいがと、大層心配されたと申すことで、間もなく御自分が難に遇われました。こういう話を承わりましても、まことに上のことを思っておられた人と存じまして、何もわけは分からずに、掃部殿はお可哀そうだと申しました。

(十三代将軍のお世継ぎを定める時、大奥では、紀州からお入りになった方がよいと思われましたか?慶喜様のお入りになった方がよいと思われましたか?)

それはまず十人が十人まで紀州の方を望みました。それは天璋院様が、紀州をよいとしておられましたからでございます。それに前の有徳院(八代将軍吉宗)様も紀州からお乗込みでございましたから、それらのわけもありましたのでございます。

(お十三代の御逝去の時は、何か怪しいということでしたが、いかがでありましたか?)

そういうことを申しました。実にあの時の御屋形の騒動は、一と方ならぬことでございました。

(慶喜公が伏見からお帰りの時はいかがでした?)

お帰りになった時は洋服でございました。宮様(和宮)にお伺いになったところが、洋服の装(なり)では会わぬ、服を替えなくてはお会いにならぬと申すことで、御用掛りか何かの着物を借りて、紫の紐で、呉絽のブッ裂き羽織でございました。そうして奥へお通りになりました。その時に天璋院様も御対顔になりました。何でも伏見の戦争のお話を、堅板に水を流すようにお話しなさいましたと申すことでございます。その時に宮様に歎願をして、朝敵でないということを、あちらへ御状を願いたいということでございました。

(紀州宰相(徳川慶福、後に十四代将軍家茂)がお世継ぎときまったのはいつでありましたか?)

六月十八日(安政五年)でございました。仰せ出されましたのが二十四日の晩のことで、お乗込みが二十五日でございました。公方様(十三代将軍家定)の御逝去が七月六日申(さる)の下刻(午後五時)でございました。十一月二十一日に御代替りを仰せ出されました。そのとき将軍宣下(せんげ)でございました。

補足

旧事諮問録での大奥の話に関して、天璋院に仕えていた大岡ませ子という元御中﨟は、将軍や御台所から盃をもらったくだりなど、そのようなことは無かったと否定しています。箕浦、佐々両女史が話を盛ったのか、大岡が将軍の名誉を守ろうとしたのか・・・・

【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
青蛙房)