今回は、明智光秀の重臣斎藤利三の子で、春日局の兄に当たる斎藤利宗の生涯を紹介します。利宗が本能寺の変に関して利宗が証言したとされる内容が近年注目されています。
斎藤利三の三男として生まれる
利宗は永禄10年(1567)に斎藤利三の三男として生まれました。幼名は出来丸、元服後は利光と名乗り幼いころから父に従って明智光秀に仕えます。
兄が2人いましたが、長兄は早世し、次兄の甚平とともに父に従って早くから戦にも加わっており、天正7年(1579)、光秀の波多野攻めの際には川中で敵と組打ちして首を取ったとされています。
本能寺の変
天正10年(1582)、利宗は父に従い本能寺の変にも参加しました。その時の話を甥の井上清左衛門に語ったとされる内容が近年注目されています。
その内容とは
といったものです。井上清左衛門から別の加賀藩士が聞いた内容を江戸初期に記したものなので又聞きの記録にはなりますが、話は具体的でかなり興味深いものだと思います。
山崎の戦いを生き残る
直後の山崎の戦いでも父や兄と共に戦いますが、味方が敗走する中斎藤軍は奮戦し、川中で敵と組打して首を取ったのは波多野攻めの時ではなく、この時織田信孝の家臣相手だったともされています。
戦で、次兄甚平は討死し、父利三は処刑されます。
利宗は乱戦の中を逃れて畿内に潜伏し出家して立本と名乗り、縁のあった細川忠興を頼って忠興から助命嘆願されますが、この時に事件が起こります。
磔にされていた父利三の遺骸から首が盗まれ、この犯人が利宗であると同族で関係の悪かった斎藤以密から讒言されたのです。
秀吉の嫌疑を受けますが、北野天満宮の神前において焼けた鉄を握り火傷しなかったことから嫌疑が晴れたとされており、その後親族の稲葉一鉄に預けられました。
実際に利三の首を盗んで埋葬したのは、利三の親交のあった画人の海北友松であったとされています。
加藤清正の家臣として活躍
小牧長久手の戦いでは馬で敵陣に乗り入れて敵を討ち取る功を挙げ、やがて利宗の武勇を評する加藤清正に仕えることとなります。
朝鮮出兵では加藤清正の将として功を挙げ、帰国後に還俗して斎藤伊豆利宗と名乗り、肥後国平定の戦いでも活躍、5千石を与えられています。
慶長16年(1611)に清正が没しますが、しばらく後、跡を継いだ忠広と折り合いが悪かったのか、加藤家を辞して浪人となり、近江や美濃に隠棲しています。
大身の旗本へ
その後寛永6年(1629)になり、妹の春日局の口利きで徳川家光から常陸国真壁郡に5000石を与えられ、幕府の大身旗本となります。
翌寛永7年(1630)には御持筒頭となり、従五位下伊豆守にも叙任され、与力10騎、同心50人も預けられます。なお、松平伊豆守信綱に憚って、後に伊豆守から佐渡守に名乗りを変更しています。
寛永11年(1634)に甥で小田原藩主であった稲葉正勝(春日局の子)が亡くなり、跡を継いだ正勝の子正則が幼少であったため、春日局の依頼による幕命で寛永15年(1638)まで利宗が後見人を務めています。
この時は、与力10騎と同心50人も連れて来て、藩政の一切を取り仕切ったそうです。
妹の春日局は寛永20年(1643)に亡くなっていますが、その後も利宗は活躍しており、病気がちだった稲葉正則が正保元年(1644)に摂津有馬に湯治に赴いた際には、幕命によりその間の小田原城留守居を利宗が務めています。
また、寛永20年(1643)幕命により、越後村上藩堀家断絶後の城受取役も務めます。
正保4年(1647)に81歳で死去していますが、長男、次男に先立たれ、三男の幸長(よしなが)は他家(町野家)に養子に行っていたため、家臣の斎藤利明に嫁いだ娘の子利意(としおき)が養子となり跡を継ぎます。
なお、利意の跡は利宗の子であった町野幸長(幸宣)の子の斎藤利有が継いでいます。
細川忠興とは終生親交があったようで、利宗は忠興から茶の湯も学んだようです。
また、利宗が後見していた稲葉正則は、後に老中(首座)を長く務めるなど幕閣の中心で活躍しています。
弟斎藤三存
利三の四男又兵衛は小西行長に仕えて朝鮮出兵で軍功を挙げたとされていますが、その後のことはよく分かっていません。
利三の五男が興三右衛門三存(みつなり・みつなが)で、若い頃は長宗我部元親に仕えます。利三の妹が元親に嫁いでいたので叔母の縁を頼ったのでしょう。
後に兄と同じく加藤清正に仕えて朝鮮の役で活躍しています。
その後は妹春日局の夫稲葉正成と同じく小早川秀秋に仕え、関ヶ原の戦いでは明石全登を捕える手柄を立てたと寛政重修諸家譜には記載されていますが、明石全登を捕えたとは他の書物には見当たりません。
その後元和元年に秀忠に仕えて下総国香取郡で2000石を与えられ、元和9年には御持筒頭となり足軽50人を預けられます。
寛永2年(1625)に56歳で亡くなりますが、跡を継いだ子の三友(みつとも)は従五位下摂津守に叙任、御徒頭や御小姓番頭などを務めて加増を重ね、合わせて5000石となっています。
その他、利三の七男七兵衛の孫尚政や利春も厳有院に召されて幕臣となっています。
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