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戦国武将の男色事情~信玄の恋文と・・・

 戦国大名は正室のほかに多くの側室を持ち世継をえて家を繁栄させようとしましたが、同時に男性同士の恋愛も盛んに行われていました。これは「男色」や「衆道」と呼ばれています。

 男色は合戦前に女性を遠ざける縁起担ぎから始まったといわれ、やがて美少年を愛することが武士の嗜みともされるようになり、若い美男子を側近くに小姓として揃えていたのです。

信玄の恋文

 甲斐の武田信玄も有名で、しかも春日源助という若い家臣(後の高坂弾正昌信)に宛てたラブレターが残っていますので紹介します。

 春日源助は大百姓の子で信玄に見いだされて近習となっています。

【内容(意訳)】

一 弥七郎との関係を疑っているようだがとんでもない
一 今まで弥七郎を夜伽に呼んだことはないし、今夜も呼んでいないんだよ
一 お前のことを想って色々手立てをしているのに、かえって疑われるなんて・・
一 正式な誓紙に書こうと思ったが、周りに人が多く普通の紙に書いた。明日改めて話すよ
 源助(昌信)は後に武田家の重臣として活躍しますが、信玄の強い想いがあったことは想像に難くありません(*´Д`)
 ところで、戦国大名と寵童との関係について、織田信長と森蘭丸をイメージする人もいるのではないでしょうか。

高坂昌信と森蘭丸

 ついでに高坂昌信と森蘭丸の意外な接点についてお話します。
 昌信は信州海津城主を務め、天正6年(1578)に52歳で亡くなります。
松代城(旧海津城)
 
松代城(旧海津城)
 
 その後次男の信達が跡を継ぎますが、天正10年(1582)に織田信長に武田家が滅ぼされると、信州は信長家臣の森長可の管理下に置かれ、降伏した信達も長可に属します。この森長可は森蘭丸の兄です。
 その後すぐに本能寺の変が起こり、蘭丸は本能寺で信長と共に死にますが、兄の長可はその報を聞くと、慌てて信濃から撤退しようとします。
 ここで、元々敵であった信達らが長可の撤退を妨害します。長可は取っていた人質50人を前面に出して国境まで切り抜け(後に人質を皆殺し)美濃へ撤退したそうですが、高坂家と森家は深い遺恨を残したままとなりました。

森家の復讐

 まだこの話は終わらず、長可は小牧長久手の戦いで討死し、末弟の忠政(蘭丸の弟)が森家の跡を継ぎます。
 なんとこの森忠政が、慶長5年(1600)に川中島藩主となり信濃に戻ることとなったのです。
 もちろん忠政は兄らが受けた仕打ちを忘れておらず、着任すると直ちに兄長可を裏切った者達を徹底的に探し出しすように命じます。
 他国に逃げ延びた者もいたでしょうが、高坂一族は捕らえられて、一族全て磔にされて処刑され、高坂家は滅亡してしまったそうです・・・

武田遺臣と家康~徳川家臣となった甲州武者たち
天正10年天目山の戦いで勝頼・信勝父子が自害し甲斐武田家は滅亡しましたが、徳川家康は少なくとも約800人の武田遺臣(武田旧臣)を家臣にしており、江戸時代を通じて多くの子孫が活躍しています。