鈴木孫一と鳥居彦右衛門~伏見城の戦い
雑賀衆の出である鈴木孫一重次(孫市、重朝とも)は、関ヶ原の戦い前哨戦での伏見城攻めで鳥居彦右衛門元忠を討ち取ったとされる武将です。
城兵ことごとく討死し彦右衛門が戦い疲れて腰掛けたところに攻め手の孫一が辿り着くと、彦右衛門は
「吾は鳥居彦右衛門よ。首を取って功名にせよ」
といい、具足を脱いで腹を切ったため、孫一が首を取ったといわれます。
孫一と鳥居忠政~彦右衛門の具足
孫一は後に水戸徳川家に仕えますが、ある時人を介して彦右衛門の子である鳥居忠政に対し、
「私は昔伏見城で彦右衛門殿の最期に立ち会い、その時の彦右衛門殿の具足等は我家に保管してあります。御父上の形見になりますので、是非お返ししたい。」
と申し送ったそうです。忠政はとても悦び、
「亡き父の形見でこれ以上のものは無いので一目見たい」
と返信したため、孫一が自ら具足を携えて鳥居家屋敷を訪れると忠政は門外まで出迎え孫一を奥の間に通します。
忠政は具足を据え飾ると「父に再び会った気がする」と涙を流し、孫一を最大限饗応したと伝わります。
翌日、今度は忠政が孫一に使者を送り、
「父が最後に帯びた具足を見ることができて悦びに耐えない。しかし我が家には父が残したものが他にもあるので、見苦しいかもしれないがこの具足は孫一殿の家において伝え、子孫に武名を伝えられたい」
と具足や太刀などを孫一に返したそうです。
その後忠政は、毎年冬に水戸の孫一に対し、綿を厚く入れた衣5着を使者を立てて送ったそうで、水戸徳川家ではその話に感動し、鳥居家の使者が来る際は道を整えさせ、孫一に使者をもてなすための食を給したといわれます。
なお、その具足は代々鈴木家に伝えられ、平成になって大阪城に寄贈されているそうです。
孫一と八丁念仏団子刺
すばらしい話の後に、孫一に関する怖い(奇妙な?)言い伝えを紹介します。
この孫一は「八丁念仏団子刺」という備前行家作の名刀を持っていました。ある月夜の晩に、孫一は佩刀の切れ味を試そうと辻に出ました。(何とも恐ろしい時代です((((;゚Д゚))))
すると寂しい道を念仏を唱えながら先を歩く男を見つけました。孫一は後ろに忍び寄り、いきなり刀を抜いて袈裟掛けに斬りつけたのです。
ところが、確かな手ごたえがあったにもかかわらず、男は何事もなかったようにそのまま念仏を唱えながら歩いていきます。
孫一は不思議に思って刀を抜いたまま杖にしてその男の後をついていきました。
そのまま八丁(約900メートル)ほど歩いたところで念仏が止まったかと思うと、突然男は真っ二つに分かれて倒れて死んでいたのです。
更に杖に使っていた刀には路の石が団子のように串刺しになっていたことから、「八丁念仏団子刺」の名が付いたということです。
さすがにそのまま信じることはできないエピソードですが、それほどの切れ味を誇っていたのでしょう。
同刀は水戸徳川家に伝来しています。
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