徳川(松平)家がまだ貧しかったころの家康と近藤という家臣とのやり取りと、いわゆる大賀弥四郎事件との関係に関する逸話を紹介します。
貧乏侍近藤
三河時代の家康が城外に出た際、田植えする百姓たちの中に色白い男がいました。畔に立てた棒に刀を下げていたことから、近寄ってよく見てみると近藤某という徳川家の家臣でした。
近藤はわざと顔を泥で汚して、家康が呼んでも気づかないふりをして田の中から動かず寄ってきません。しかたなく家臣が田の中に入って促すと、顔を洗いようやく家康の元にやってきました。話を聞くと、貧しい身上のため百姓に交じって野良仕事をしていたことが分かり、家康は家臣に苦労させてすまないと話して主従共々涙を流したといいます。
近藤は貧しくとも武勇に優れた忠義の士であったそうで、後に戦功を立てて知行が加増されることになりました。
大賀(大岡)弥四郎事件
この時加増の伝達に当たったのが大賀弥四郎(大岡弥四郎とも)という代官でした。
弥四郎は元々身分の低い中間でしたが、気の利いた性格で算術にも通じていたことから次第に頭角を現して家康とその嫡男信康に気に入られ、数十村を束ねる代官にまで出世していた人物です。
近藤は弥四郎の代官所に呼び出されて加増を伝えられたのですが、このとき弥四郎が近藤に対し「自分の口添えで良い領地を与えることができたことを忘れぬように」と恩着せがましく付け加えたそうです。
剛直な士である近藤は怒って家康の家老達の元へ行き、
「弥四郎のような無法者の口添えによる加増など一粒たりとも要らん。今のままの知行で十分でござる!!殿の御勘気を賜るならば腹を切って構わん(゚Д゚)ノ」
と申し立てました。
そのことが家康の耳にも入ると家康は自ら近藤を呼び出して
「お前の加増が弥四郎の口添えによるものなどあろうはずがない。田植えの時のことなどよく覚えておろう」
と話して、近藤は涙を流してようやく加増を受け入れたといいます。
更に近藤から弥四郎のことをよくよく聞いてみると、
家老達重臣より恐れられている。家臣たちが誤りを犯したとしても、家老達には温情があるが弥四郎にはない。全て好き嫌いで決めており弥四郎に睨まれると身の終わりだといわれている。
殿や信康様から重用されていることから誰も文句が言えない空気になっているが、この際、御家の大事なので申し上げる。
詳しいことは目付にでも尋ねてくだされ。
と言い立てたことから、家康は驚き、重臣たちを召して尋ねると、弥四郎のことを把握しておきながら家康と信康に憚って言い出しにくかったとのこと・・
結局近藤の言ったことは真実だと分かり、弥四郎は捕らえられ家財没収となりますが、更に新たなことが明らかになります。
弥四郎が甲斐の武田勝頼と通じている書簡が発見されたのです。
それによれば弥四郎は仲間の小谷甚左衛門、倉知平左衛門、山田八蔵らと結託し、
そして城内の者を人質として三河遠江の衆を味方にさせれば、家康は尾張か伊勢に逃亡するだろう。
そうすれば戦わずして武田家が三河遠江を手に入れることができる
と記されていたとされます。
実際に武田家も兵を進めていたとされますが、一味の山田八蔵が弥四郎を裏切り信康に報告したため、発見された書簡と相俟って企てが明らかとなったのです。
弥四郎の妻子5人は磔となり、弥四郎は浜松城下を引き廻された上で磔にかかった妻子を見せられ、更に首だけ地上に出した状態で生き埋めにされます。
そして往来の者に少しずつ竹鋸で首を切らせ、7日後に絶命したと伝わります。
一味の小谷甚左衛門は渡邊守綱が捕縛に向かいますが甲斐に逃亡し、倉地平左衛門は今村勝長、大岡助次らが討ち取り、逆に山田八蔵は加増されたそうです。
家康は、
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