鎌倉時代の元寇(1274年・1281年)や平安中期の刀伊の入寇(1019年)以前にも朝鮮半島からの襲撃、略奪が幾度もありました。
弘仁4年(813)2月、肥前に現れたのをはじめ、貞観11年(869)5月に博多、寛平3年9月と6年4月に対馬へと略奪に来襲してきます。やってきたのはいずれも新羅の賊であったといわれています。
そして寛平6年(894)9月、5度目の来襲でしたが、対馬に40数隻もの船に乗船した2500人ともいわれる新羅の賊が押し寄せます。幾度もの来寇で準備を整えていたのでしょう、島司の文屋善友は急ぎ200の兵を招集し抗戦を開始します(2000人ともいわれますが対馬の規模から考えて200の方が妥当でしょう)。
善友は蝦夷との戦いなど武人として経験を有しており、賊を弩を構えた陣に誘い込んで大量の矢を浴びせ、混乱し退却するところを追撃し散々に打破ったといわれます。
記録によれば、大将3人、副将11人、士卒300人を斃し、船11艘、甲冑、刀剣、弓矢を鹵獲したとされています。戦果報告のため誇大化されていたとしても、相当な規模の戦いであったでしょう。
善友が捕虜とした朝鮮人の賢春という者を尋問したところ、
「今年は作物が実らず庶民は飢えに苦しんでいますが、公の倉にさえ空になっています。王城さえも困窮しており、国王がお命じになり他国から略奪することになったのです。船百隻、人員は2500人になります」
と供述し、賊船の事情が明らかになったといいます。
この事件は大宰府を通じて朝廷に報告され、善友らの戦功について賞されたのです。
80余年の間に5度もの来寇があったため、朝廷は壱岐、対馬に防人を置き、筑前及び山陰にも警備を設け、廃止してあった出雲、隠岐の伝達用の狼煙を復活させます。
また、延喜21年(921)、神からの御告げがあったとして醍醐天皇が「敵国降伏」の宸筆を下賜した上で壮麗な神殿を建立し、延長元年(923)完成します。
これが、楼門に掲げられている「敵国降伏」との宸筆による額縁が有名な、福岡にある筥崎宮です。
一般的には元寇時に造られたものと思われがちですが、それよりはるか昔の新羅による来寇が重なった時代に創建されたものなのです。
神殿も対馬がある外洋に向けて建てられており、当時このような壮大な神社が創建されたことが、度重なる来寇に人々が苦しんでいたことが分かります。
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