米倉昌縄は甲斐武川衆の米倉一族で、大坂の陣で戦死した兄義継の跡を継いで秀忠に仕え大番組に入り、150石を知行を得ていた旗本です。
寛永5年(1628)3月8日夕刻、昌縄に遺恨があったという興津七郎左衛門と江波太郎兵衛という旗本2名が、仲間の内田五郎左衛門、奥山七之助という旗本2名の応援を得て、それぞれ従者数名を従えて昌縄の屋敷を取り囲み、表へ出てくるよう昌縄に叫びます。
昌縄はあらかじめ襲撃を予想して門を固く閉ざしており応じなかったため、興津らは門を打ち破って討ち入ろうとしますが、この時すごかったのが昌縄の老母です。
老母は家人に下知して門扉の下から槍を出して突かせた上、長屋の窓を開いて矢を射させたため、興津らは門に近づくことができません。
同時に老母は屋敷内を走り回り、見苦しい雑具を集めて長櫃の中に入れて焼き払う準備をします。襲撃者への対抗と万一の時の覚悟を合わせて行ったのです。昌縄はこの時27歳であったといいますから、老母は武川衆が武田家臣であった時代に生まれた戦国の女であったのでしょう。
一方昌縄の家臣1名も弓を射ながら戦ううちに討ち取られてしまいますが、昌縄はこの間に鎖帷子を装着し、十文字の槍をもって家臣1名を従えると門を開いて突撃します。
多勢に無勢ですが昌縄らは奮戦し、興津、江波の2名を突き殺し、昌縄も腕に傷を負って槍を持てなくなりますが、さらに刀に代えて内田と切り合います。
内田の斬撃も昌縄に当たりますが、鎖帷子のおかげで傷を負わず、内田も倒し、奥山は傷を負って退いたため、各々の従者たちもことごとく逃げ去ったそうです。
その後、昌縄は事の次第を上役の大番頭であった松平重則に報告した上で腹を切ろうとしたそうですが、
・興津、江波、内田、奥山の4名が江戸府中において大勢で徒党を組んだ罪は重い
・なおかつ、多勢であったにもかかわらず昌縄1人に負けて逃げ出している
ことから4名を罰すべしとなり、土屋勝正が検使として差し向けられます。
結果、内田は倒された傷が元で夜のうちに息を引き取り、奥山は検使の命を聞いて自害したそうです。
相手は4名全て死んでおり喧嘩両成敗であったのでしょうか、昌縄も召し放ちとなりますが、流浪した末に紀伊徳川家に仕え、その後細川家の家臣となったということです。
遺恨の原因は分かりませんが、幕府初期には戦国の名残からこのような荒々しい風潮が残っており、私闘や辻斬りなども度々あっていたようです(この風潮は生類憐みの令により生物の殺生が徹底的に禁じられるまで続いたといわれます)。
なお、同年(寛永5年)米倉家には改めて昌縄の弟政継(昌純)に200石が与えられて旗本として列せられており、その子米倉昌尹の代には、同じ武川衆出身で親戚である柳沢吉保の影響もあってか加増を重ねて1万5000石の大名にまでなっています。
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