武田遺臣横田尹松
横田尹松(ただまつ)は、天文23年(1554)に武田信玄の重臣として活躍した横田高松、二十四将として有名な原虎胤の孫として生まれ、自身も信玄、勝頼に仕えて足軽大将を任されていた武将でした。妻は山県昌景の娘であり、武田家臣のサラブレッドともいえたでしょう。若い頃は三方ヶ原の戦いにも参加しています。
高天神城の守将の一人を務めた際は、一同が勝頼に援軍を求める中、冷静に状況を見定めて武田軍の消耗、無駄死を避けるため「援軍不要」との密書を勝頼に送ったといわれています。
甲斐武田家滅亡後に家康に仕えて3000石を与えられ、小牧長久手の戦い、小田原攻めにも従軍し、関ヶ原の戦い、大坂の陣では御使番(家康の命令を各部隊に伝えたり監督する役)を務めています。
大坂の陣での機知
その大坂夏の陣での話を紹介します。
家康が本多正信、正純父子、成瀬正成らを引き連れて各陣を巡見していたときのことです。尹松も同じ武田遺臣の初鹿野伝右衛門とともに御使番として側近くに従っていました。
ある陣に来たとき、城方からの鉄砲玉がしきりに飛んできている危険な状況でしたが、家康はそのまま外で様子を見ていました。そこで正信が
「ここは鉄砲玉が多く危険ですので移動しましょう」
と家康に伝えたのですが、臆病と思われるのを嫌がったのでしょう、家康は意地になって動かなかったそうです。
鉄砲玉は変わらず飛んでくる状況で周囲がやきもきする中、尹松と伝右衛門は
「まことに殿は鉄砲玉が飛んでくるような危険な場を好まれますな。ここより大砲の玉までも飛んでくる危険な陣場がありますので参りましょう!」
というと、家康の馬の口を向けさせ、さっと出発させたのです。
実は向かった先の陣は城から離れており鉄砲玉はなかなか飛んでこない場所だった所で、咄嗟に家康のプライドを傷つけないまま危険を回避させたといわれます。
徳川家中随一の知恵者とされる正信・正純父子も手こずった場面でしたが、家康も尹松らの意図がわかったようで、機嫌よく移動したそうです。
また、藤堂高虎軍が長宗我部盛親軍と激戦を繰り広げていたとき、高虎が家康の本陣へ来て「早く御馬を寄せられよ」と家康の援軍を請うたとき、尹松は馬上から「誰だそのようなことをいう者は!!先手の若者どもに払わせよ!!」と大声で一喝したため、高虎は返す言葉もなく引き下がり、逆に尹松のことを感心したとされています。
その後の尹松と横田家
尹松は大坂の陣後に2000石の加増を受け5000石となった後も旗本の重職を歴任し、寛永11年(1634)に家光が上洛した際にはその間の甲府城代を任され、翌寛永12年に82歳で死去しています。
甲府城から廃墟となった躑躅ヶ崎館(武田家の本拠:現武田神社)を眺めたであろう尹松は、激動の人生を振り返りどのような心境だったのでしょうか?
横田家はその後も大身の旗本として続き、天明7年(1787)の横田準松のときに加増され、旗本最高の9500石となって幕末まで続いています。
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