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鳥山検校の悪徳高利貸しと瀬川のその後

 鳥山検校が吉原松葉屋の瀬川を身請けしたことが安永4年の評判でした。

「むらさきの 衣が奪ふ 三布団」

といわれました。(検校とは盲人としての最高位で紫の衣を着るのが許されており、三布団は花魁が三枚重ねにする布団のこと)

 このころ、鳥山検校ら盲人が吉原で豪遊する姿が見られていました。

 なぜここまで羽振りの良い生活になったのでしょう。当時の盲人による高利貸しの実態と、鳥山検校、瀬川のその後について紹介します。

旗本の窮乏

 江戸中期、幕府、各藩も財政が窮乏する中、多くの旗本も例外ではありませんでした。先祖伝来の武具は質に流れ、武芸の修練より内職に励み、持参金を目当てに町人、豪農と養子縁組する者も多くいました。

 また、江戸の旗本御家人の俸給は米であり、その仲介をしていた札差によって現金を得ていましたが、臨時の入用のときには高利貸し等を利用する必要がありました。

 このような暮らしの中、旗本・御家人らの江戸社会において、金貸しの存在は非常に大きなものとなっていました。

盲人の高利貸し

 盲人は幕府により金貸しが認められており、更にその債権を庇護していました。町人百姓の債務者に対しては、名主や五人組にも責任を負わせて完済させていたのです。

 なお武士に対しては、組頭等へ返済を促させる程度だったので、踏み倒すこともあったといいます。わざと甲府勤番へ転属して督促を逃れたり、催促に来た町人を脅して追い返すこともあり、当時の落首に

「金借りて、氷砂糖(高利座頭)をかみ砕く、さつても強い、お歯た元(御旗本)哉」

というものがあります。

 それに対し鳥山検校らの高利貸しは、踏み倒されないよう新たな方法を始めたのです。

 その方法は、相手が武士であろうと、返済が滞った家に座頭達を大勢遣わして玄関などに居座り、大声で雑言を浴びせたり昼夜問わず催促を繰り返すなど、体面を重んじる武士には効果てきめんだったようです。

 更に、返済が滞った場合は法外の催促をすると証文に取っておいたり、証文には通常の法定利息である年一割五分を記しておいて、3,4カ月ごとに証文を書き換えてその都度礼金と称して貸し出し分から差し引いたり、期限を月途中として証文書き換えごと二重に利息を取るなど厳しいものでした。

鳥山検校らの処罰

 安永7年(1778)7月、旗本の出奔事件がありました。結局この旗本は行き場を失い出家した戻ってきたのですが、出奔の原因は高利貸しからの借金で首が回らなくなったことでした。

 同年12月、悪質な金貸し行為と取り立てが問題視され、鳥山ら7検校をはじめとした盲人や浪人、町人の悪徳高利貸しが町奉行から処罰されます。

 遠島、家財没収、債権没収等となり、債務者は無利息年賦返済で、返済金は盲人保護資金にも充てられたそうです。なお、鳥山検校の没収された債権は1万5千両、別の名古屋検校は10万8千両に及びました。

 盲人はその座に引き渡され、合議により装束を取り上げられ追放処分を受けたのです。

 鳥山は寛政3年(1791)に特赦により追放処分を解除されますが、その後まもなく亡くなったといわれています。なお、鳥山の旧宅に平賀源内が住んだ、しかもその家には化物が出たとの噂話も残っています。

 鳥山検校らの処分により金銭の貸し借りが不自由になって世間が難儀したといわれています。逆にいかに鳥山検校らの商売が繁盛していたかを表していますね。

瀬川のその後

 鳥山検校に身請けされていた瀬川のその後についてですが、芝居ではその後すぐに鳥山の下男に殺害されたことになっています。

 実際は、鳥山の処分後に飯沼という旗本の妻となり、2人の子を生みました。

 その後夫が亡くなり寡婦となりますが、家に出入りしていた結城屋八五郎という大工と通じて、飯沼家を出て八五郎の妻となります。

 飯沼家に残した二人の息子は、一人が家督を継ぎ、もう一人は養子に行きますが、養子先で放蕩してしまい家を出て、その子も八五郎と瀬川の所にきて髪結になったといわれています。

 結局瀬川は高齢になるまで飯沼家を継いだ息子から援助を受けながら八五郎の妻として高齢まで暮らしたようです。