藤原高藤(たかふじ)は平安初期の貴族藤原良門の子で、藤原北家を隆興させた冬嗣の孫に当たり、紫式部の先祖の一人にもなります。
今回は『今昔物語集』から、高藤と妻にまつわる逸話を紹介します。
雨宿りの一夜
高藤は幼い頃から鷹狩りを好んでいましたが、15,6歳になったある秋の夕方、鷹狩りの途中で急に天候が崩れ雷雨となりました。供の者達はちりじりになって雨を凌ぎ、高藤は山辺に人家を見つけると、馬の口を取る馬飼いの者1人だけ連れてそこへ向かったのです。
その家は檜垣をめぐらし、小さな唐門もある屋敷で、高藤は雨宿りさせてもらうことにしました。
家の主は狩衣袴を着た四十余の男で、
「むさくるしい所ですがどうぞ中でお休みください」
と高藤を中に案内し、高藤は濡れた着物を脱いで休んでいると、薄紫色の衣に紅色の袴をはき、扇で顔を隠しつつ13,4歳の娘が高坏を持ってやってきました。
その娘は髪筋や額髪のかかり具合など、田舎に似つかわしくない美しさで、高藤は出された焼米、切大根、干鮑などを食し、酒も出され、やがて夜になりそのまま泊まっていくことになりました。
寝床の中で高藤は、先ほどの娘のことばかり考えており、
「一人寝はおそろしいゆえ、さきほどの娘をここへ呼んでくれ」
と頼むと娘はすぐにやってきて、高藤はそのまま娘を引き寄せて抱き寄せ、一夜を共にしたのでした。
翌朝、別れ際に高藤は佩刀を娘に与えて、
「これを私の代わりに置いていく。たとえ父母が他の男とめあわせようとしても、決して承諾するな」
と言い含めて出立したのです。
やがて高藤のことを探していた家来たちとも合流し屋敷に帰ったのですが、屋敷でも父らが夜通し高藤の行方を捜していたのでした。
父は、
「自分も若い頃遊び歩いていたからお前のことも自由にさせていたが、こうして心配をかけるようではだめだ」
と、鷹狩りによる外出は禁止されてしまいます。
高藤の家来であの娘のことを知っているのは馬飼いの男だけでしたが、その男もやがて暇を取って田舎に帰ったので、高藤は娘の元へ便りを出すこともできずにいました。
娘との再会
会えないことで高藤は一層娘への想いを募らせていったのですが、そのまま月日は流れていきます。
4,5年後、父が亡くなり、高藤は目を掛けてくれる伯父の良房の屋敷に出入りしながら日々を送っていました。
そして、あの鷹狩りの日から6年ほど経った冬のある日、馬飼いの男が田舎から出てきたのです。
高藤はそれを聞くとすぐに呼び出し、
「あの雨宿りした家を覚えておるか」
と尋ねると、
「確かに覚えておりまする」
との答えに高藤は小躍りして喜び、
「明日ともいわず今から出立しよう」
と、供を仕立てて早速出発したのです。
例の家に着いた時にはすでに夕方になっていましたが、家の主人は喜んで出迎えます。
高藤はすぐに
「昔の人(娘)はいるのか」
と尋ねたのですが、
「はい、はい、無事で居りまする」
との答えに胸をなでおろします。
部屋に案内されると娘は几帳の陰に半ば隠れていましたが、よく見ればますます美しい大人の女性になっていたのです。高藤はこの世にかほどの美人がいるのかとまで思います。
しかし、娘の傍らには5,6歳ばかりのかわいらしい幼女がいたのです。
「誰か、この児は」
と尋ねるも、娘はうつ向いてすすり泣いてばかりだったので、家の主人を呼んで尋ねると、
「娘には一切男は近付けずに育てていましたところ、殿がおいでのころに懐妊して生みました稚児でございます」
と答えたのでした。
高藤はこみ上げてくる感慨をどうすることもできずにいたのですが、ふと見ると自分が渡した太刀が飾ってあり、幼女の顔も見れば見るほど自分に似ていることに気付かされます。
高藤はそのまま一晩過ごした後、
「すぐに迎えに来る」
と言い残し帰宅します。そして家の主である父は何者であるだろうと調べさせると、宮道弥益というその郡の大領(長官)であることが分かりました。
高藤の身分に比べるとかなり低い家でしたが、もちろん高藤には関係なく、翌日牛車に下簾をかけ、侍たちを供に連れて戻ってきます。
娘と幼子を牛車に乗せますが、身近な者が一人もいないのはと思い母も一緒に乗せて連れ帰ったのでした。
その後の二人は
娘は宮道列子という名で、京に戻ってからの2人は周りから羨ましがられるほどの夫婦仲となり、高藤は当時の貴族と異なり他の女性には見向きもせず、やがて立て続けに男の子2人も生まれます。
後に高藤は累進して大納言になり、例の幼女はなんと宇多天皇の女御となったのです。そして生まれた皇子が後に醍醐天皇となったのでした。
なお、妻の父(家の主)宮道弥益は四位に叙せられ修理大夫に任じられます。
醍醐天皇が即位してから高藤は外祖父として内大臣に上り、家は栄華を極めました。
醍醐天皇が生母の追悼のため、宮道弥益の邸跡(現京都市山科)に勧修寺を建立したといわれています。
高藤ら2人の孫娘が、歌人藤原兼輔及びその子藤原雅正と結婚し、雅正の孫には紫式部がいますので、2人の血は紫式部にも繋がっていることになります。
また、『源氏物語』の「光源氏」と「明石の上」との関係は、高藤と列子をモデルに作られたともいわれています。
新着記事