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一橋治済の生涯~11代将軍家斉の父

 一橋治済(はるさだ)は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の父として、江戸時代後期の幕政において権勢を振るった人物です。

 大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では、俳優の生田斗真さんが治済を演じています。

 ここでは、治済の生涯と田沼家との関わりについても解説していきます。

一橋家とは

 最初に一橋家についてみていきます。

 一橋家とは、徳川将軍家の一門・御三卿の一つで、8代徳川吉宗の四男宗尹(むねただ)を祖とする家です。

 御三卿とは田安・一橋・清水の3家で、徳川将軍家に跡継ぎがいないときは、次期将軍を出す資格を持っていました。田安家の初代当主は吉宗の三男宗武(むねたけ)で、清水家の初代当主は吉宗の長男である9代将軍家重の次男重好(しげよし)です。

 宗尹は元服後、江戸城一橋門内に屋敷を与えられたため、一橋家とよばれるようになります。その後、兄・田安宗武とともに10万石の賄い料を与えられ、将軍の家族として待遇されました。また、幕臣の出向者が家臣となっていました。

 なお、現在は一橋門は取り壊されて無くなっており、道路になっています。

治済、一橋家を継ぐ

一橋治済は、宝暦元年(1751)11月6日、一橋宗尹の四男として生まれました。宗尹は8代将軍徳川吉宗の子なので、治済は吉宗の孫にあたります。

 長兄・松平重昌と三兄・松平重富は、それぞれ越前福井松平家を継ぎ11代・12代藩主となっており、次兄は若くして亡くなっていたため、治済が一橋家の世子となり、宗尹の死後、13歳で跡を継ぎます。

 その3年後、治済が16歳の時、「京極宮公仁親王」(きょうごくのみやきんひとしんのう)の第1王女・在子女王(ありこじょおう)を正室に迎えました。しかし、在子女王は結婚して3年後に14歳の若さで亡くなっています。

 在子女王との間に子はできませんでしたが、側室たちとの間に、9男4女の13人の子供が生まれています。

 その長男がのちに11代将軍となる豊千代(とよちよ)でした。

息子・家斉が将軍となる

 安永8年(1779)2月、10代将軍家治の後継だった家基が鷹狩りに出かけて体調が急変し、18歳の若さで亡くなります。(徳川家基の死因~ペルシャ馬からの落馬~オランダ商館長の記録を参照)

徳川家基の死因~ペルシャ馬からの落馬~オランダ商館長の記録
鷹狩りの途中で突如体調を崩し亡くなったとされる十代将軍家治の嫡男徳川家基。田沼意次による暗殺説など囁かれる中、オランダ商館長が記した別の死因について紹介します。

 この家基の死に息子を将軍にしたい治済が関わっていた(毒殺)という説もあります。

 そして、家治には他に男子がいなかったことから、ここで将軍継嗣問題が発生し、失意の家治は次期将軍候補として養子を迎えることを決意します。

 その養子選定の中心となって動いたのが、老中・田沼意次でした。

 田沼意次と一橋家には、実はこの50年ほど前からパイプがありました。

 意次の弟・田沼意誠(たぬまおきのぶ)が、一橋家初代当主一橋宗尹の小姓をしていたのです。意誠はその後、一橋家の家老に昇進して、最終的に800石の旗本になっています。

 のちに意誠の子の意致(おきむね)も父同様に一橋家の家老に就任しています。

 そして、意致が一橋家の家老を務めていた時に、将軍継嗣問題が発生したのです。

 当然、意次は一橋家から次期将軍を出すために動き、天明元年(1781)5月27日、家治の養子は、治済の子・豊千代に決まりました。この豊千代が、のちの11代将軍・徳川家斉です。

 天明6年(1786)、家治が病死したため、家斉が11代将軍に就任します。

 田沼意次のおかげで、息子が将軍になったので、治済と意次は今後も友好関係が続いていくと誰もが思ったでしょう。

田沼派を一掃する

 しかし、家斉は将軍に就任すると、意次を罷免し、代わって陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中主座に任命しました。

 この一連の動きは、当時15歳だった家斉の意志とは考えにくく、治済や反田沼派の策謀があったとされています。

 松平定信はもともと一橋家と同じ御三卿の田安家の出身でしたが、17歳の頃、譜代大名の陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まりました。当然、将来将軍になる道も閉ざされます。

 この養子入りについて、定信は自身の自叙伝『宇下人言』(うげのひとこと)で、田安家は、白河藩主松平家との養子縁組を望まなかったが、田沼意次の画策により仕方なく承諾したと言っています。

 また、定信の従兄弟である治済が、次期将軍を一橋家から出すことを考え、定信を将軍候補者から排除したかったため、田沼と手を結んだとの説もあります。

 しかし、息子が将軍になる目的が達成された今、意次は治済にとって用済みでした。

 そして、定信と手を組み田沼派を幕閣から一掃したのです。

尊号一件

 しかし、今度は定信が改革を行ってわずか6年で、老中首座と将軍補佐の職を辞任しています。
この定信の辞任は尊号一件が大きな原因といわれています。

 尊号一件とは、後桃園天皇の死後養子として即位した光格天皇が寛政元年(1789)に実父の典仁(すけひと)親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとして幕府に打診しましたが、定信の反対で実現しなかった事件です。

 「太上天皇」とは天皇が譲位した後の称号のことで、基本的にこの尊号は皇位についた元天皇のみに贈られるものでした。しかし、典仁親王は天皇の実父ですが皇位にはついていません。

 そういうことで、皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例がないと反対したのです。これにより朝廷と幕府の関係は悪化します。

 これだけなら、定信の失脚とまではいかなかったですが、ちょうどその頃、11代将軍・家斉も実父の治済に「大御所」の尊号を贈りたいと考えていました。朝廷の件で反対した手前、同じような条件である家斉の希望も反対します。このことで、家斉との関係が悪化し、失脚につながったとされています。

治済、権勢を極める

 定信失脚後、「将軍の父」である治済は家斉の後見役として幕政にも関与するようになり、権勢を振います。

 寛政11年(1799)には、従二位権大納言に叙任されました。

 御三卿として初めて、御三家の尾張・紀伊両家と官位が並んだのです。

 同年、一橋家の家督を六男・斉敦(なりあつ)に譲って隠居し、悠々自適の生活を送ります。

 文政元年(1818)には剃髪して僧侶となり、「穆翁」(ぼくおう)と号しました。

 その後、文政3年(1820)には従一位に叙せられ、同8年(1825)には准大臣(じゅんだいじん)に昇りました。

 准大臣とは、大臣に准ずる待遇のことで、大納言の上の席次になります。

 そして、多くの人々から巨額な賄賂が贈られてきて、かなり贅沢な暮らしをしていたそうです。

 ちょうどその頃、治済によって失脚した田沼家の当主・田沼意正(おきまさ)が幕政に復帰していました。

 意正は田沼意次の四男で、陸奥下村藩主から旧領の遠江相良藩主に返り咲いており、さらに意次と同じ側用人にまで昇っています。

 なぜ冷遇されていた田沼家が意正の代になって相良藩に復帰できたり、要職に任じられたかというと、、、当時将軍・家斉の側近として権勢があった水野忠成(ただあきら)による引き立てがあったためといわれています。

 意正は若い時に水野家の養子となっていましたが、父・意次が失脚したことで、養子縁組を解消されて田沼家に戻されていました。

 忠成は意正が水野家を離縁されたあとに、新たに水野家に婿に迎えられており、同じ水野家の養子同士という関係があったのです。

 ただし、当然、将軍・家斉の同意があってのことであり、未だ健在だった治済の意志も関わっていたのではないでしょうか。

 自らの権力掌握のため、恩人である田沼家を失脚させたという負い目があったことで、田沼家の復権に口添えしたとも考えられます。

 そして、文政10年(1827)、77歳で天寿を全うし、2年後には太政大臣を追贈されています。

 亡くなるまで幕政に大きな影響力を持っていたといわれています。

 息子を11代将軍とするため、邪魔な家基を毒殺したという説も囁かれてきましたが、真実はわかりません。

 ただ、田沼意次、松平定信という二人の権力者の失脚に裏で大きく関わっていたのは紛れもない事実でしょう。

 そして、14代将軍徳川家茂まで治済の血筋が続いていくことになります。