合戦で無類の強さを誇り、毘沙門天の化身、軍神といわれた武将・上杉謙信、、、
49歳で亡くなる前年には信長の軍勢を破っています。戦国時代最強の武将ともいわれた謙信がもし70歳まで生きていたら、世の中はどうなっていたでしょう。
ここでは、謙信の史実の晩年からその後のifの世界をみていきます。
謙信と信長の関係
晩年の謙信の最大の敵は織田信長でした。
晩年には敵同士であった両者でしたが、もともとは武田信玄を共通の敵として元亀3年(1572)11月に同盟を結んでいました(濃越同盟)。
この同盟は信玄死後も続き、信長は謙信に気を遣い米沢市上杉博物館所蔵の『洛中洛外図屏風』などを贈っています。
しかし、信長が北陸地方を制圧していく中で徐々に関係が悪化し、信長と敵対していた本願寺一向門徒と謙信が和睦を結んだことにより、濃越同盟は消滅してしまいます。
そして本願寺と和睦したことにより、謙信は上洛への道が開けたのです。そして能登国へ侵攻を開始します。
手取川の戦いと謙信の死
天正4年(1576)、謙信は約2万の軍勢を率いて畠山家が治める能登国へ侵攻を開始します。そして能登国内の諸城を次々と攻略し、難攻不落といわれた畠山家の本拠七尾城を包囲します。しかし、関東で北条氏政が進軍を開始したことを受け、関東諸将から援軍要請を受けた謙信は春日山城へと撤退しました。
上杉軍撤退後、謙信が攻め落とした能登国の諸城は、次々に畠山軍に奪い返されますが、謙信は翌天正5年(1577)年7月に再度能登へ侵攻し、七尾城を再び包囲します。
七尾城に籠城した畠山軍でしたが、糞尿の放置が原因で不衛生な状態となり城内に疫病が蔓延してしまいます。当主畠山春王丸までもが病没し、重臣の長続連は信長に援軍を要請しました。
援軍要請を受けた信長は、柴田勝家を総大将とする約4万の部隊を編成し、ついに謙信との戦いに踏み切ります。
一方、力攻めが難しいと感じた謙信は調略により、畠山家重臣の遊佐続光に反乱を起こさせることに成功し、七尾城を落としました。 柴田勝家を総大将とした織田軍は、一向一揆と交戦しながら侵攻して行きます。
しかし、途中で柴田と意見が衝突した羽柴秀吉が勝手に自軍を引き上げてしまうという出来事が起こりました。それにより織田軍は足並みが乱れます。
そして、七尾城が落城したことを知らないまま、加賀国手取川を渡って水島に陣をはりました。 このことを知った謙信は約2万の軍勢で一気に南下します。その頃七尾城落城を知った織田軍は撤退を開始しますが、それを謙信率いる上杉軍本隊が追撃し、手取川を渡って撤退していた織田軍を撃破しました。
織田軍を破った謙信は春日山城に帰還し、次なる遠征に向けての動員令を発しました。天正6年(1578)3月15日に遠征を開始する予定でした。
しかし、その6日前である3月9日、春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま、3月13日に亡くなりました。享年49歳でした。
関東遠征
ここからが想像の世界です。謙信が天正6年(1578)に倒れず、その後も生きていた場合の世界を想像してみます。
謙信は遠征の準備中に倒れて、そのまま回復せず亡くなっています。
謙信の最後の遠征先には、関東説と上方説がありますが、ここでは関東説を取ります。
謙信が史実の天正6年(1578)3月13日に亡くならなかった場合、予定通り同3月15日に関東遠征が開始されます。
敵の北条家とは永禄12年(1569)に越相同盟を結んで、氏康の七男三郎(のちの景虎)が謙信の養子となり友好関係にありました。
しかし、元亀2年(1571)10月に氏康が病死すると、跡を継いだ氏政は越相同盟を解消して、同年に武田信玄と同盟を結んでいます(甲相同盟)。
ただし、謙信と景虎の養子縁組は解消されず、北条は主に房総や下野方面に進出したため、小規模な戦闘はあったものの東上野は上杉領、西上野は武田領、南上野の一部は北条領という状況が続いていました。
また上杉家と武田家は、「長篠の戦い」後に将軍・足利義昭の呼びかけに応じて和睦しており、友好関係にありました。
北条家と武田家は2年前の天正4年(1576)1月に氏政の妹が武田勝頼に嫁いで、甲相同盟が強化されていた時でもありました。
この状況の中、謙信率いる上杉軍が関東遠征を開始します。
上杉家と北条家の両方から援軍要請があった武田勝頼ですが、どちらにも付かず静観します。
上杉軍は南上野の北条領を制圧したのち、武蔵国へと兵を進めます。
関東の諸大名は次々と謙信の元へ馳せさんじ、約8万の軍勢で小田原城を包囲します。謙信からの降伏勧告の条件は、上杉家への従属、相模・伊豆・2か国以外の領地を没収というものでした。氏政はこの条件をのみ、上杉家の配下大名となりました。没収した武蔵国は謙信の養子・景虎に与えました。
また佐竹をはじめとする関東の諸大名も上杉家に臣従し、これで名実ともに関東管領として君臨することになります。
上杉家は武蔵国を領国としたことで、関東の支配地域をのばし、ますます強大となります。
中立の立場をとった武田勝頼も織田・徳川相手に対抗するには謙信と敵対するわけにはいかず、西上野を上杉に割譲することを条件に越後に同盟締結の使者を送り、謙信は同盟を了承します。
信長との戦い
北条家を降し、再び武田家と同盟を結んだ状況で、いよいよ謙信は信長と雌雄を決すべく、織田討伐の動員令を発します。天正9年(1581)のことでした。
この時点で上杉家の領国は、越後、越中、能登、上野、武蔵、加賀の一部、北信濃で約200万石です。これに加え、傘下の北条、佐竹、結城、宇都宮ら関東の諸大名からも参陣があり、約5万の兵を招集しました。
総勢5万、、、加賀国へ侵攻を開始します。前々から上杉家の情勢を警戒していた織田家の北陸方面軍団長・柴田勝家は、信長へ応援要請を行い、信長は勝家の求めに応じてすでに軍勢を率いて越前国へ到着していました。
当時の織田家は、畿内を中心に約500万石の大勢力を誇っていました。
上杉軍5万と織田軍6万が越中・加賀国境で対峙します。
対陣は3か月にわたり、小競り合いはありましたが、結局本格的な戦闘にはいたりませんでした。また上杉軍は本拠地から遠く、兵農分離が出来ていないこと、兵站の問題もあり長期間の対陣は厳しい状況でした。そして冬が到来する前に両軍は引き上げていきます。
織田家と膠着状態へ
その後、北陸地方においては、信長と石山本願寺の和睦を受けて加賀一向門徒も織田軍に降伏し、加賀国は完全に織田家の支配下となりました。
能登、越中の国境での小規模な戦闘はありましたが、お互いの勢力圏を維持したまま時間が経過していきます。
史実では、謙信死去後に養子の景勝と景虎が跡目を巡って越後の国人衆を巻き込んだ争いが起こります。
結果、景勝が勝ち上杉家の後継者となりましたが、越後国内の戦乱により上杉家の戦力は半減したといわれ、御館の乱の恩賞の不満が原因で新発田重家の反乱へとつながり、織田家の侵攻を招くことになります。
しかし、謙信が長生きしたことによって新発田重家の反乱は起きません。
謙信の元、一致団結している上杉家相手にさすがの信長もなかなか侵攻できない状況が続きます。
本能寺の変が起こらなかった場合
謙信が健在の状況で、史実より2年遅くはなりましたが、木曽義昌の裏切りを発端に天正12年(1584)、織田信忠を大将とした武田征伐が開始されます。
史実では織田・徳川・北条の三者が相手でしたが、上杉家の傘下大名となった北条氏政は、勝頼を助けるようにとの謙信の命令で、甲斐国に援軍を送りました。
謙信自身も勝頼の要請で1万5000の軍勢で北信濃に出陣し、織田家の滝川一益を大将とする2万の軍勢と川中島で対陣します。謙信としても北陸に柴田勝家軍団が控えている中、これ以上武田家へ援軍を送る余裕はなかったでしょう。
この間信忠率いる本隊3万は南信濃の諸城を落とし、甲斐国に迫っていました。離反者が相次いだ武田軍は北条からの援軍を加えても1万が精一杯で、その上駿河へも徳川の侵攻に備えて兵を割いたため、防戦一方となり、ついに本拠地新府城を落とされ滅亡します。
武田家滅亡後、北条家は相模国を信長に差し出し、伊豆一国安堵を条件に信長の配下となりました。待遇も徳川家のような独立大名ではなく、織田家の家臣とされます。
その翌年には信長は中国地方の毛利家、四国の長宗我部家を降します。
そして、天正14年(1586)、ついに信長は8万の軍勢で上杉討伐を開始します。武田勝頼はすでに滅亡しているため、越後国の南隣の信濃国は織田家の支配下にありました。
領内に複数箇所から攻め込まれたため、謙信は得意の決戦に持ち込めず、各地で防御に徹することになります。謙信が自ら軍勢を率いた局地戦では勝利するものの、大勢では織田軍団の攻勢になす術がなく、徐々に本拠地越後まで後退します。
能登・越中・上野・武蔵・北信濃はすべて織田軍が制圧し、越後一国まで追い詰められます。
ここで信長からの降伏勧告の使者が謙信のもとへやってきます。謙信は成り行き上、信長と敵対しましたが、信玄と違って信長に不義理をおかしたわけではないので、従属すれば越後一国を安堵するという比較的好条件を提示してきました。
謙信は苦渋の決断のすえ、信長に従うことを決めます。
それほど、日本の中心を抑えている信長と大大名とはいえ地方の勢力である謙信との勢力差は大きいものでした。
史実では、秀吉は1590年に北条家を滅亡させ天下統一しています。ただしそれは1582年に織田家が分裂した状態からです。
織田家が分裂して徳川家や北条家とも敵対関係になった状況でも、結局秀吉が天下を取ったのです。信長、もしくはその後継者が天下を取るのはもはや自然の成り行きだといってもいいでしょう。
本能寺の変が起きていたら
次は謙信が長生きして、かつ「本能寺の変」が起きた場合の世界を想像してみます。
史実では天正10年(1582)6月2日に「本能寺の変」が起きます。
その当時のifの東国の情勢をみていきます。
主な大名の支配地域は、
上杉家は越後・越中・能登・上野・武蔵の5か国、武田家は甲斐・駿河・信濃の大部分、北条家は相模・伊豆の2か国となっていました。
史実では天正10年(1582)3月に織田軍の侵攻を受けて滅亡した武田家でしたが、上杉・北条が味方の状況で、織田軍からの侵攻を受けずに勢力を保持したまま生き残っていました。
天正10年(1582)6月2日、この情勢の中、明智光秀が信長を襲い「本能寺の変」が起きた場合、、、さまざまな条件が重なっての「本能寺の変」でしたが、ここではそれを一切無視して起きたと仮定します。
織田家の領国は分割されますが、史実と違う点は、柴田家と与力大名の領国が越前国、加賀国の2か国のみ、徳川家も三河・遠江の2か国のみです。また滝川一益も伊勢亀山の大名でしかありません。
天王山の戦いで明智光秀を倒した秀吉は、続いて賤ヶ岳の戦いで柴田勝家と織田信孝を滅亡させます。
尾張・伊勢の織田信雄と三河・遠江の家康では秀吉に対抗できず、小牧長久手の戦いは起きずに両者とも秀吉に従います。
その後秀吉は、四国の長宗我部、九州の島津を降し、西日本を完全に平定しました。
次に秀吉が目を向けたのが、甲斐・信濃・駿河を治める武田勝頼と北陸の謙信でした。
まず勝頼に上洛するようにとの秀吉からの使者が派遣され、勝頼は秀吉に臣従します。
そして上杉家へも上洛の使者がきます。この使者は今は秀吉の庇護下にある室町幕府15代将軍足利義昭でした。義昭の説得を受けて謙信は、越後、越中、能登、武蔵、上野、北信濃の旧領安堵を条件に上洛して秀吉に臣従を誓います。
上杉傘下の北条家や関東の諸大名も、謙信にならいすぐに上洛して秀吉に臣従しました。さらに伊達家をはじめとする東北の諸大名も続々と上洛し、天正16年(1588)、ここに豊臣家による天下統一が完成しました。
豊臣政権の五大老のメンバーは、、
正二位内大臣・上杉謙信 180万石
従二位権大納言・織田信雄 90万石
従三位権中納言・毛利輝元 120万石
従三位権中納言・武田勝頼 100万石
従三位権中納言・徳川家康 50万石
といったところでしょう。
家康は他の大老に比べれば小禄ですが、旧主信長の同盟者だったということでメンバー入りしました。
秀吉は当時の大名の中で信長が唯一恐れた謙信に対しては、大層気を遣い、最高位の内大臣とし、豊臣政権の五大老の筆頭として扱いました。
秀吉による天下統一の翌年天正17年(1589)、謙信は脳卒中のため59歳の生涯を閉じます。
謙信死後は、養子・景勝が後継者として上杉家の名跡と大老職を継ぎます。もう一人の養子・景虎は武蔵一国を治めていましたが、謙信の遺言でこれに上野国が分与され、武蔵・上野2か国の独立大名とされました。
景勝は五大老の筆頭として、豊臣政権下において権力をふるいます。
謙信が亡くなって9年後の慶長3年(1598)に秀吉も亡くなり、秀頼が跡を継ぎます。
史実では豊臣から天下を奪った家康も2か国の大名では天下を望むことはないでしょう。豊臣政権が長続きしたと思います。
上杉家は代々政権の重鎮としての役目を果たし、豊臣政権はその後100年続くことになります。
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