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江戸町奉行の実話~明治維新後の回顧談

 明治24年に、東京帝国大学の学者が旧幕府関係者から聞き取り調査を行い『旧事諮問録』としてまとめられました。

 今回はその中から、江戸幕府で大目付や外国奉行、江戸町奉行などを勤めた山口(駿河守)直毅という人の話から、町奉行に関するものを紹介します。

町奉行の支配

(町奉行はどうでありました?)

御承知の通り、法律というものが今日の如く密ではありませぬ。法が疎かだから奉行の手腕が必要でした。

(江戸の町の政事は町年寄や名主が世話を焼いていたようですが、奉行が町年寄や名主に任しておいたのはどの辺りまででありましたか?つまり町奉行はどこまでやったのですか?)

ごく下の事を名主がやって、その上に町年寄がいました。

(町年寄は名主の評議役ではなかったのですか?)

いや、名主を支配していたので、樽(樽屋)館(たて:奈良屋)、喜多村の三家で、いずれもみな旧家です。

(喧嘩とか小さな訴訟などは名主が裁判するのですか?)

そうです。まあちょっとした事、ほんの内輪の揉め事などです。とにかく悪い者を町内から出したりして御奉行の耳に入れないようにするのが名主の働きとなっていたのですから。

(金の出入りとか斬ったりはったりしたこともですか?)

いや、斬ったりはったりしたのは大切で、目付が知ってしまいますから、そういうのは奉行所へ行きます。ちょっとした賃借くらいのことです。

(町奉行は与力同心に対すると、町名主に対すると、どちらが多く面会、又は話をしたのですか?)

それは勿論与力です。名主に面会することはありませぬ。与力が下調べをいたしませぬと手が出ませぬ。貸金出入りのことでも何でもそうです。

また訴状を奉行の前に持って来て、そうして御席(おせき)を願うと言います。御席は何日になりますから何日に出ろと言います。

至急を要することになると、すぐ調べなければならぬこともあります。奉行の家来に目安方(めやすがた)というのがありまして、それが扱いました。

奉行の用人と目安方は、与力の次、同心よりも上席であります。余程むつかしいのは、書面を奉行が見ておかなければならぬ。

その日に双方を呼び出して、被告と原告の言うことを聴いてみて、容易に決着のつかぬものは、おいおい吟味すると言って、さて与力の中にて人選して、その与力に任せますから、任された与力が其の後を調べます。終決の時は奉行が言渡しをいたします。

むつかしいのになりますと、与力がまた奉行の所へ持ってきます。私にはとても手に合いませぬ、今一回お直(じき)にお調べ下さいということもあります。

その中には妙なところに縁故があって、私共には行かぬと言って、奉行の裁判に任せて逃げるのもあります。通例は最初奉行が調べて、中は与力が吟味して、終決はまた奉行になります。

歳晩になると、一日にこの位の広盆の上へ、訴状が沢山載ってきます。一々見ていると一日位はかかります。ですから大概は見ないのです。最初調べるときに初めて訴状を見るのです。

彼の言う事を耳で聴いて、眼で手の訴状の文言を見、口の中で読むのです。そうして、是はチットむつかしいなと思うのは別にしておいて、先の方をドンドンやってしまうのです。

そうしておいてこやつはむつかしい訴えだから、順からいえば誰なれども、誰某ではできまいから、何某にやらしてみようと、与力を選んで言い付けるのです。ここらが奉行の鑑定です。

町奉行の裁判

(一度町奉行所で裁決したものを承知せずに、それを評定所へ持ち出すことは出来ましたか?)

それは出来るはずなのです。上告してもよろしいのです。しかし評定所のことは全く種類が違います。評定所の方は、原告が江戸の人別で、被告が大坂、あるいは九州、北国の者とかであると、町奉行では行けませぬから評定所であります。

江戸の町だけのことならば、両町奉行所にてどこまでもいたします。しかし、かの目安箱というのもありますから、評定所に持ち出してもよろしいのです。

(町奉行の同心は、裁判の時はどういうことをしておりますか?)

あれは警固の役であります。当時の警察の仕事ですが、賊を召捕ったり、牢へ送ったりするのは同心です。其他、若年の者は町奉行の供をするもあり、定廻り、隠密廻り、或いは書記の同心もあります。同心の中には種々の掛りがありますから。

(南の町奉行所で裁決したことを不服で、北の町奉行所へ持ち出すことはありませぬか?)

それはありませぬ。町奉行所から評定所へ行くなら格別、南の裁決は不服だからと、北の方へ持って来ても取り上げませぬ。

南町奉行所と北町奉行所

(南と北はどう違っておりましたか?)

場所が違っておりますだけで、する事は同じです。ただその持場に種々の数が分けてありました。私は書いておきましたが、何百口というのでした。

(その掛りの口というのは何でありますか?)

商売による取扱いです。訴訟の方の掛りではありませぬ。諸商の問屋を分け、三人の町年寄にて掛りを決めさせ、たとえば呉服、木綿、薬種問屋は舘の掛りにて南奉行所の持ち、書物、酒、廻船、材木問屋は樽の掛りにて北奉行所の持ちと申す如く、各々受持ちのあることでした。

(商売で差別があったのでしたか?)

左様、酒屋はどことか、米穀はどことか、畳問屋はどちらで持つとか、各々異なっておりました。

(月番で代わるのではありませぬか?)

月番ではありませぬ。月番は訴訟を受け付ける方です。

(畳屋に関係した訴訟は、南の奉行の月番に出すというのですか?)

そうではないのです。訴訟は別です。畳屋が畳の掛けでも取れなくなって訴える時は、畳問屋の掛りの方の役所へ持って出るのです。米穀高直(こうじき)なれば直下げ(ねさげ)を諭すなどは、その掛りの役所でするというのです。

(公事訴訟ならば月番へ持って行くのですか・)

左様です。

白洲と与力

(町奉行から与力の手へ渡して調べさせるのは、やはり町奉行の白洲でしたか?)

左様、町奉行の白洲でしたが、白洲が違っていました。与力の詰所のある狭い方の白洲でした。奉行の方は広いのです。

溜りへ町名主が出て、訴人を呼び出すのでした。身分の重い人のは別に座敷がありました。目見(めみえ)以上とか身分のある人は溜りが違うのです。

それから与力の吟味する所の後に、内聴所(ないぎぎしょ)というのがありました。与力の吟味を陰で奉行が聴くことがあったのです。幕末になっては、そんなことをしている暇もなかったのですが、全体は聴いたのだそうです。

(与力の曲直を監察する人はなかったのですか?)

ないのですが、御徒士目付などが折節出張っておりました。つまり彼が曲直を見るのです。奉行所へ御徒目付が来ると、また入って来たというので、嫌われていたようです。

(与力は悪いことをいたしましたか?)

随分それはありましたな。奉行の方は折々替わりますが、彼等は親代々従事している熟練家ですから、弊害もあったようです。

(只今の予審のようなことをしたのは与力ですな?)

左様です。先程も申す通り最初が奉行、それから与力、それが予審に当たりましょう。盗賊なら盗賊が最初捕まって来ると、すぐ奉行が一通り尋ねるのです。

事によると、夜の十時頃に急に白洲を開くことがあります。捕者(とりもの)が来ますと開廷せなければならぬ。自身番で一通りは言わせてありますから、罪状を書いて同心から出してあります。どこで着物を盗んだとか、金を盗ったとか書いてあるから、それをもう一度言わせて、そこで吟味中入牢申付けると言うのです。

奉行が入牢申付けると言渡さぬと、牢へ入れることが出来ぬのです。湯屋で半纏一枚盗んだというのも、奉行が言渡さなければならぬ。冬の夜などは困るのです。白洲までは間数も隔たっており、火鉢も何もない寒い所で聴くのですから。

(翌日に廻すことは出来ませんのですか?)

廻すことは出来ませぬ。どこへも置き所がない、仮牢に入れなければなりませぬから、それに三度の飯も食わせなければならぬから、ぜひ奉行が入牢申付けるという言渡しがなければいけませぬ。

(本所と深川には別に裁判所があったのですか?)

与力同心の中に本所掛り、深川掛りというのがありましたが、別に裁判所はありませぬ。

(あすこに何か建っていたようですが、やはり土地の区別ですか?)

本所深川はまず別物だからでしょう。事を取扱うには同じですが。

(鞘番所というのは何をいうのですか?)

番所の横に細くなっている所でしょう。牢屋などの中の細い道があるのを鞘と言いますから。

(あれは本所と深川ばかりにあったようですが?)

左様かも知れませぬ。鞘と申すことは刀の鞘という所から来たようです。

町奉行の行政

(平日の江戸市中の行政の事を扱うのは誰ですか?)

町奉行がやりました。裁判もしたり、火事場へ出たり、ずいぶん繁劇な役です。

(それには政所がありましたか。白洲だけではありますまい。)

座敷が多くありましたから、座敷でした。

(記録を司る者は誰でしたか?)

同心でした。白洲の方へ出る吟味方の与力は上役です。記録の方をするのは、ちょうど上の右筆です。奉行の家来にも右筆がいて記録します。それから当番与力というのがあります。与力は吟味方と当番方と二つに分かれておりました。

(物価の高低などには関係がありましたか?)

関係したのです。あれは町奉行が説諭をいたしました。探索掛りの方から探索して来ます。一同呼び出して説諭でした。度々ありました。

町奉行の捕方

(町奉行には捕方は幾人くらいおりましたか?)

捕方は同心です。十手を持っているのです。あれは定廻り、臨時廻りなどありまして、袴は着けず、羽織だけで歩いておりました。彼の手先に岡っ引というのがありました。

(岡っ引と目明しとは、どこが違っていたのですか?)

同じです。岡っ引は同心が給金をくれて置くので、同心の抱えでした。

(それでは探索掛り兼捕方をしたのですか?)

左様です。

(町奉行の部下には何人くらいおりましたか?)

奉行の部下は南北各々与力が二十五名ずつ、同心百名ずつ(増員四十名ずつ)、そのほか石出帯刀支配の牢屋の役々にて、何人いるかよく覚えませぬ。

(御一新のおりに453人あったということがあります。それは町奉行を廃せられた時、槍が453本あったそうです?)

牢屋掛りなどを残らず入れたらそうなるでしょう。沢山おりましたから。

(方々に辻番がありましたが、あれは大名の掛りで、町奉行や幕府の方には少しも関係ありませぬか?)

関係はあります。見廻りには番士、徒士目付、小人目付が出かけて行ったので、あれはまったく旗本の屋敷屋敷にて、旗本同士が組合って、自費で建てたのであります。

(辻番にはどの位の権利がありましたか?)

乱暴人を制し、時には途中で縛っても?ろしいのであります。

(武士でも何でも縛りましたか?)

武士では留めておいて、住所姓名を聞いておくだけで、容易に縛るわけにはならぬのです。

(大名の辻番でも、帯刀している者は縛れぬのでありましたか?)

左様、定書が十箇条ほどありましたから。

(辻番には幕府の御目付あたりから、どこどこ迄の権利を与えるというような決めがありましたか?)

あれは御目付に掛りがあって、また令条がありましたが忘れました。大名には家風がございましょう。習慣もありましたろう。

(私などは下谷の堀家の辻番というのが、ひどくやかましく、小便などすると大変やかましかったと聞いておりますが?)

あれがやかましかったのは、あすこが御成道という所からでありましょう。

あすこに縄を巻いてありましたな。あれは放れ馬を止めるのだそうです。

(町奉行の方で人を捕る時は、武士などを捕る時は、どういう規則がありましたか?)

それはみだりに捕ることは出来ませぬ。一応質してから縄を掛けるのであります。しかし奉行の命令で名指ししてくるのは仕方がない。御用に付いて縄を掛けるというので、町奉行の何の誰から達したというのであります。

(暴れ者の時は?)

暴れ者の時は、手に余ったというので、すぐに縄を掛けるのであります。

(旗本など直参に縄を掛ける時は、余程やかましいのでありましたか?)

これはなかなかやかましい。

(そういう時は、どういう手続きがありましたか?)

留めておくか、奉行所へ連れて行くかするのですが、その場合、神妙にせぬ時は縄を掛けるので、無暗に縄を掛ければ、縄を掛けた方が悪いのです。

(見附見附には別に役がありましたか?)

見附には見附の番の職掌があります。規則も書いたものがあります。御門御門の規則は幾箇条かあるので、通行の規則もあります。場所によって恐ろしく厳しい所があります。あれは目付などの所にちゃんと書いてあります。目付の書物には色々ございますが、箱の中に種々の法則書がいっぱい入っております。

江戸市中での商い

(往来へ持って行って、色々の物を出して商うのがありましょう。露店。あれにはどういう取締りがありましたか。誰でも出してよろしいのでしたか?)

あれには道幅いくら出るなとかいう制限があったようです。それはかねて聞いておりますが、場所に困ります。地主と相談がなければならぬので、往来に差障りはないということを見るのは、道を歩いている同心が見るので、同心がやかましく言って廻るのであります。道幅から出れば小言を言います。往来の障りにさえならなければよろしいのであります。

(そのことには何かちゃんとした規則がありましたか?)

左様、ありましょう。ただよく存じませぬので、ここですぐには申し述べられませぬ。

風紀取締り

(町奉行は江戸の町の事については、自由に令を出すことが出来ましたか?)

同役二人と相談して出すものもあります。

(湯屋の風儀が悪いとか、矢場の風儀が悪いとかいう時は、今なら警視庁でやりますが、旧はその取締りなどのことも、内閣というような政府から出たものでありますか?)

町だけの小さなことで、他に関係のないことは奉行にて行いますが、他に関係していれば、御目付へ談合し、老中へ申さねばなりませぬ。

(裸体で往来を歩いてはならぬとか、風儀などのことについて、取締りがありましたか?)

それは必ずあります。

(頭巾を冠って歩いてはならぬとかいうようなことがありましたか。その令は老中から出たように考えましたが、いかがですか?)

左様です。やはり一般に関わりますからな。家来も冠る、浪人も冠るというのでありますから、やはり町奉行から上へ言うので、風儀に関わったことは目付から出ますから。

(それから祭礼とか花見時の向島などの人込みには、町奉行の方から人でも出して取締りをしますか?)

それは持場持場があります。飛鳥山などは郡になるから代官の方であります。代官の方は勘定奉行の持ちになりますから。

(町奉行の持ちだと町奉行から取締りの日とが出張するというのですか?)

左様、同心が出ます。定廻りというので出ております。それから御鳥見というのがあって、これが場末の方の取締りみたような者です。

(あれは威張った者でしたな?)

左様、あれは鷹のために威張ったのであります。御鷹匠に聞くと、御鳥見をたいへん憚り忌みました。御鳥見はつまり巡邏でございます。御鳥見と申して鳥ばかりを見るというわけでなく、つまり在の目付でございます。

御鳥見という名のわけは、鶴などに石を打ちつけてはならぬなどというために取締りをしておったので、実は郊外の取締りであります。また郊外に屋敷などを建てるにしても、自分が銭を出して地面を買って建てるにも、ぜひ御鳥見というものにちゃんと届けをして、御鳥見に承知されなければ持てませぬ。鳥を見るばかりなら、そんなことはいらぬ筈でありますが。

(御鳥見は御鷹匠とは関係いたしませぬか?)

御鳥見は御鷹匠の目付であります。それは鷹匠が鷹を権にかって、暴れては困るからであります。

(民間の風俗上の取締りは?)

目付で申し立てますが、市中は町奉行の下役、郡村は勘定奉行の下役であります。

(売淫などは?)

これは町奉行でもっぱら制します。

(吉原などにも制限がありましたか?)

ありました。あれはやかましいもので、目付の方から突っ込んできます。「此の頃は隠し売女が出るが、町奉行は何をしているか、目がないか」とか、「隠し売女が出た。奉行様はポンとしていてはいかぬ。貴君方の方でも御探索なすって下さい」などというのです。

すると町奉行も「今日御目付から小言を言われたが、あんなことを言われては困るではないか」と下役へ小言を言う。それからとっ捕まえて来るのですが、あれは変なもので、目付からは突っ込むけれども、町奉行の方では我が子を庇うようなところがあって、こいつもマア仕方がないというようなこともありますよ。

(絵草紙なども取締りがありましたか?)

絵草紙は町奉行が一々あらためをするのであります。町奉行の許可がなければ版にすることは出来ませぬ。

(あの中に風俗に関する絵とか、または上を諷するような絵があったそうでありますな)

左様、そういうものを出すと、また目付から突っ込まれるのであります。

(随分ありましたか?)

春画などが往来の露店に出ておりました。あれらは度々触れを出して禁じたことがありましたな。

(そうではなく、役人の悪口などを版にしたものがありましたな。あれは密かにやるのでありましたか?)

あれは版をつぶすことを承知でやっているのであります。刷り出して早く売ってしまうと、それだけが得になるというので、やっているのであります。

(その罰則は?)

あれは版を取り上げて、「叱り」であります。甚だしいのは過料(罰金)を取りましたが、大体は「叱り」であります。しかし飯の上の蠅を追うようなもので、なかなか制当が出来ませぬ。

「屹度叱り」というと、畏れ入りましたと申します。この時分は恥を知った人が多かったから、過料とか叱りとかいうと、面目を失いましたもので、その咎を受けたものは痛くも何ともないが、たいへん恥辱に思ったものであります。

(錦画などの願いの時は、金を取るというようなことはありませぬか?)

左様なことはありませぬ。

(出版書籍などは町奉行の検閲でありますか?)

あれは学校であります。錦画のような町から出るものは町奉行の掛りであります。書籍出版の時は、市民なればまず町奉行へ願い出るので、それから昌平坂学問所へ出して、出版改めを受けるのであります。

(ぜひ一遍は役人の目を通すことになっておりましたか)

左様です。

(諸藩での出版は)

学問所の方へ出すのであります。

(版権はありませぬか?)

左様、版権というものはありませぬな。

(蔵版というものは滅多に出来ぬもので、薩摩藩のものなれば薩摩藩だけで、他の者が蔵版は出来ぬようになっておりましたが?)

左様、蔵版であれば、他の者が出せば不承知でありますから、まあ版権があったようなものですかな。

(そうすると、版権の如きものがあったわけですな?)

〈けれどもそれは、たとえば薩摩藩の如き大藩での蔵版なので、一般は遠慮したというに過ぎんのではありませんか?〉

〈しかし、後藤点などは大坂の須美屋ときまっていて、決して他の者ではいかんのでありました〉

(そうすると、許可はみな受けねばならぬものとすれば、自然版権も生じるわけではないのですか?)

左様、許可を得れば、それが版権のようなものですな。

(しかし馬琴の『八犬伝』の序文に偽版をされるといって憤慨しておりましたが、続々偽版があっても、一向に保護したことはないのですね)

〈そうすると、やはり版権はないようですな〉

〈勢力のある諸藩から出版されたものには、おのずから偽版も出来ぬでしょうが、馬琴くらいならば黙許というようなことでもありましたろう〉

(戯作物などは願わないだろうと思いますが)

〈売買をするには願いをするでしょうが、上で同じ名を他に許さぬかどうか〉

一方で黙っておればよろしいのです。

(黙っておらぬ時は?)

訴えましょう。

(訴えを起こして先鋒をとめるわけですか?)

訴えれば先方のものを没収するというのです。

〈人情本などは決して保護していなかったろうと思います。出版をして損をした所が、始めからそう益のあるものとは思っていないから、大抵は保護も受けなかったろうと思います。保護をしたということは一向に見えませぬ〉

(人の権利を犯したといって、没収されたのかどうかというのであります)

それはないようであります。

〈戯作物の出版は、許可をするというより、むしろ知らぬ顔をしていたかったらしいが、水野越前守が出てたいそう厳しくなったようです〉

(経書もしくは歴史の如きものは、世教の益になるとかいうので、或いは版権みたような保護的なものが、あったのかも知れませぬな)

〈先刻の後藤点は、大坂の須美屋の版がたいそう売れたので、他でそれと同じ物を出されては迷惑するというので、其の筋へ願って一手に限っておったのです〉

(他で版権を犯さないというのは法律であったのですか、それとも本屋同士で仲間外れにするとかいう風があって、つまり習慣でしなかったのですか?)

〈これは妙なきまりのもので、たとえば何々の物というと、それが身代になってちゃんときまっている。それをほかの商人が重版をするなどのことは、始めからないのであります〉

(そうすると法律ではなかったのですか?)

左様、そうでありましょう。

(敵討だの、火事だのがあると、すぐ瓦版か何かで刷って、「敵討の次第を御覧じろ」とか何とか、つまり読売で売って来ていたのが、あれは願って売る前に、町奉行所であらためて(検閲)やるきめがありましたか?)

いや、あれはありますまい。あれは勝手でありましょう。

〈あの瓦版は、元禄の敵討などは、翌日すぐに売っておりましたね〉

左様、あれが一番早いもので、火事の中で売っていたものであります。

〈そこらはまことに粗略でありましたな〉

評定所での対決

(評定所での対決などは滅多にないものですか?)

ふるい所ではあったそうですが、私などはトンとたずさわったこともありませぬ。

(対決はそんなに珍しいことでしたか?)

左様、ふつうはないようでありますな。越後騒動とか黒田騒動とか、これらは対決であります。まず仙石騒動(天保六年判決)が一番新しいものでしょう。

(吹上の御裁判というものがありました)

左様、あれは私は逢いませぬ。あれはつまり将軍家が裁判を傍聴されるのであります。吹上のお庭の物見みたいな所で、その前に仮屋を建て、そして将軍家が奥にいらっしって、その前に三奉行が出て、銘々自分持ちの公事を裁いてお聴かせするのであります。一体に昔はむつかしいのを出して裁かせたのでありますが、だんだん面白いのを出して裁かせるようになったそうであります。

(始終ありましたか?)

いえ、始終はないのです。

(儀式にはあったようですな。御代替りの時に、儀式でやったということですが)

あれは慎徳公(十二代将軍家慶)の時に二、三度ありました。あれは水野越前守が骨を折ったのであります。何しろ天保の改革をやった位ですから、色々やっております。

(これはチト脇道へ入りますが、今の水野越前守の事でありますが、あの時分にあれだけの事をやるには、よほど勇断の人であったのでありますな)

私の聞き及びましたには、一体、英断聡明の人にて、とかく奢侈に流れて疲弊したのを救うというに熱心であったそうです。それを世間ではひどく悪く言ったそうですが、ただ使う人に悪い人があったのでありましょう。しかしなみの大名ではありませぬ。

(誰か使われる者に、しっかりした者があったのではありませぬか?)

使われる者には羽倉外記(簡堂:幕臣)というような、側近の者にも良いのがあったそうであります。越前守の人格(ひととなり)は、あの人の子息の和泉守、この人と私はごく懇意にいたしておりましたが、その和泉守の話にもよほど厳格な人であったようです。

大体、和泉守は一人息子ですが、本を教えるのにも、じかに自分で教えて、四書五経の素読にも、てんで白文で読ませられたそうです。或る時はとっ捕まえて、親父がじかに灸を据えたそうであります。

ちなみに申しますが、その頃大目付の伊沢美作守は、その以前、長崎奉行を勤めまして、越前守の時分、同港の改革をしましたが、それについて越州より一々直書にて指揮をしました。その書簡が箱にいっぱいありましたのを、伊沢が持って来て見せましたが、政道には丹誠を尽くされた人であります。