PR

江戸の暮らし~駆け落ちの流行

 江戸の町では駆け落ち、心中が流行っていましたが、元文2年春には、旗本の娘達が一気に30人以上出奔したといわれます。これは駆け落ちであったそうで、北条氏長(軍学者)の曾孫にあたる娘などは若党と家出して、そのまま雑司ヶ谷の寺で心中していたそうです。

 享保9年にあった小普請組本間権三郎という19歳の侍の話ですが、権三郎は入婿で妻は16歳の若い夫婦でした。

 この権三郎が甲州勤番を命ぜられたところ、何年も江戸に戻れぬと吉原の馴染みの女郎のところへ最後の別れにいき、一晩共に過ごします。

 翌朝権三郎が屋敷に帰ると、なんと妻は若党と駆け落ちしていたそうです。互いに若く遊びたい盛りであったのでしょうか(>_<)

 困ったのは、しばらく江戸に戻らぬということで家財を売り払い引っ越し代を妻に全て預けており、その金を持っていってしまっていたのです。

 方々妻を探していたところ、3日後に品川の刑場近くで家出した妻が一人しょんぼりと立っているのを付近の者達が保護します。妻は本間家まで送り届けられたそうですが、妻を誘い出した若党は金を奪って逃げてしまっていたのです。

 結局この騒ぎは上役の耳にも入り、本間家は改易となったそうです。

 このように事が公になると「家事不取締」と処分を受けることもあったので、家中で不義密通や家出があったとしても隠して内々に済ませるケースも多かったようです。

江戸城大奥に関する雑学~実際の大奥はどうだったのか!?
江戸城大奥の事に関しては口外されることなく謎に包まれていましたが、実際に働いていた女中たちが明治になってようやく明らかにしたその実態について紹介していきます。
江戸の暮らし~不義密通・心中の代償は!?
江戸時代、太平の世となるに従い、武家、町家にかかわらず次第に人々の風俗は乱れ、不義密通、心中などが流行するようになりますが・・・
崇禅寺馬場仇討事件~返り討ちで命を落とした兄弟
崇禅寺馬場の仇討とは、江戸時代の正徳5年(1715)に大阪で起きた兄弟の仇討ちが失敗に終わり返り討ちに遭った事件です。
江戸の町奉行所の実態とその終焉
江戸の町奉行所は基本的に北町奉行所と南町奉行所の2つがありました。町奉行所の日常と、戊辰戦争時の官軍への引き渡しについて紹介します。