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江戸の町奉行所の実態とその終焉

江戸の町奉行所

 江戸の町奉行所は基本的に北町奉行所と南町奉行所の2つがありました。(一時期中町奉行所もありましたが短期間で廃止されています)

 北と南で管轄の地区が分かれていたのではなく、1か月交代で門を開け訴えを受けていました。非番の月は休暇だったわけではなく、受けた事件の処理をしていました。町人は1月待って自分に有利な審理をしてくれる奉行所に訴えることもあったそうです。

与力と同心

 それぞれの奉行所には、奉行の下に与力が25人程度、同心が120人程度であったといいます。ドラマで出てくる岡っ引きは正式な役人ではなく、同心の私用人でした。

 与力は200石、同心は30俵二人扶持と高禄ではありませんでしたが、わずかな人数で江戸の町を切り盛りしていたので絶大な影響力があったといわれています。特に与力は各大名屋敷に出入りし法律顧問のようなことをして莫大な副収入を得ていたそうです。

 与力は400坪から500坪程度、同心は5,60坪程度の屋敷地を与えられていました。

 なお、幕末の頃には組織も緩み、奉行は与力に、与力は同心に、同心は岡っ引きに仕事を任せ、自分たちは着物がどうのこうの、十手の房の色は赤がいい、紫がいい、こう振れば房が開いて格好いいとか、そのような話ばかりして、与力でも満足に馬にも乗れなかったようです(>_<)

江戸町奉行所の最後

 さて、戊辰戦争時に官軍が江戸に進軍してきた際、町奉行所はどうしたのでしょうか。

 町奉行所が幕府から官軍に引き渡されたのは、慶応4年(1868年)5月23日のことです。北町奉行の石川利政、南町奉行の佐久間信義は役を解かれましたが、与力・同心はそのまま勤めることとなりました。

 町奉行所、特に与力・同心は江戸の町民に強い影響力を持っていたことから、騒乱の扇動でもされたらかなわないと官軍は特にその動きに注意を払っていました。

 官軍は幕閣を通じて、与力の主だった者を官軍本営に呼び出し話をしましたが、奉行所側は騒乱を起こす気持ちはさらさらなかったようです。

 引き渡し日は早朝から与力同心全て出揃い、表門を八の字に開け、玄関前に当時の与力30人と同心150人が左右に分かれて官軍を出迎えました。

 前日から掃除はもちろんのこと畳替え、障子の張替えまでして、塵一つない状態でその時を待ったのでした。

 官軍の請取役である土方久元(土佐藩)らが門前で馬を下り歩きかけると、「下あに!!」と大声で下役が叫び、奉行所側は新奉行を迎えるのと同じ作法で出迎えたのです。

 奉行所保管の宝物や千両箱を積み上げていましたが、官軍側は手を触れることも威張ることもなく礼を尽くし、丁寧に「全てあなた達にお任せします」と与力らに申し伝えてその日は引き上げ、引き渡し式は無事に終了し町奉行所としての歴史は幕を閉じたのでした。

 翌日からは市政裁判所となったのですが、土方らは江戸時代の新奉行と同様に、名主ら町人の代表からの挨拶を3日間にわたって受けたそうです。

 最後は立派に官軍を出迎えて面目を果たした役人たちでしたが、奉行所には塵金と呼ばれた裏金のような物が一万両以上残っており、「わざわざ官軍に引き渡すこともあるまい」と理屈をつけて与力同心たちで分けて懐に入れてしまったといわれています(*_*;

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