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政宗の弟・伊達小次郎は生きていた?

伊達小次郎とは

 伊達小次郎は、永禄11年(1568)に出羽国米沢の戦国大名伊達輝宗の次男として誕生しました。母は最上義守娘の義姫で伊達政宗の同母弟にあたります。

 母・義姫の実家、出羽国山形の最上家は、伊達家の北に隣接する戦国大名で、源義家四男義国を祖とする足利一門の名門です。

 天正15年(1587)、会津の蘆名家の後継者問題が起こると、小次郎が蘆名家の当主として推薦されます。小次郎は蘆名家の血も引いていたことから、早いうちより小次郎が成長した後の蘆名家への養子入りが、父・輝宗と先々代当主の蘆名盛氏との間で約束されていたのです。

 しかし、蘆名家の中に常陸の佐竹家寄りの家臣がいて、その反対工作によって小次郎の養子入りは失敗に終わり、佐竹義重の子・蘆名義広が当主となりました。

 天正18年(1590)、小次郎は急死します。兄弟対立の末に政宗によって殺されたといわれています。

小次郎の最期の通説

 小次郎の死について、伊達家の正史である「貞山公治家記録(ていざんこうちけきろく)」に記されている出来事を紹介します。この正史は当時から100年以上経った元禄16年(1703)に編纂されています。

 天正18年(1590)、関東の北条氏を征伐するため、豊臣秀吉が諸大名を総動員して、「小田原征伐」を行います。

 伊達家にも小田原参陣の要請がありました。北条氏と同盟関係にあった伊達家中では、北条氏に付くか、秀吉に臣従するかで意見が割れました。

 そして、政宗が「小田原征伐」に参陣しようとしていた4月5日に事件が起きます。当時、会津黒川城にいた政宗は、母・義姫に小田原参陣に向けて招かれた宴で、膳に箸をつけたところ、腹痛を起こしたのです。そして、投薬を受けてなんとか一命をとりとめました。

 義姫がこの宴で息子の政宗を毒殺しようとしたのです。溺愛する次男の小次郎を伊達家の後継ぎにするためであったといわれています。

 母親を殺すわけにはいかない政宗は、4月7日、小次郎とその傅役・小原縫殿助を手討ちにします。その晩、義姫は実家の最上家へ逃げ帰ったのです。小次郎に伊達家を継がせるために母が毒殺を図り、その背後には義姫の兄・最上義光の陰謀があったとされています。

 これが「貞山公治家記録」に書いてある通説です。

小次郎の墓

 宮城県登米市津山町横山にある長谷寺(ちょうこくじ)の南側、右念山(うねんざん)の山頂に小次郎の墓所があります。

 小次郎の遺体は、当初は伊達家の領地であった会津の寺に埋葬されていました。しかし、秀吉の奥州仕置によって、伊達家は会津の地を召し上げられ、新たに旧葛西氏・大崎氏の旧領が与えられることになります。

 政宗は、母の化粧領地として、本吉郡横山の地を当て、小次郎の遺体もその地に改葬したのです。

 政宗からは7代の勘当を言い渡されていたため、小次郎に対する法要が営まれるのは200年余り後の寛政5年(1793)、仙台藩8代藩主・伊達斉村の治世になってからでした。 斉村は名代を遣わして供養を行いました。

小次郎は生きていた?

 実は小次郎は生きていたとの説を紹介します(元仙台市立博物館長の佐藤憲一氏による)。

 東京都あきる野市に金色山大悲願寺という寺があります。小次郎と大悲願寺第15代住職法院秀雄(ほういんしゅうゆう)は同一人物だということです。

 同寺の過去帳によれば、江戸時代初期に同寺の15代目住職を務めた秀雄が、元は伊達輝宗の末子であるといわれており、政宗が没した際にも自分の兄であることから、これを供養したことを、秀雄自らが書き記しているのです。

 佐藤憲一氏は論文の中で、秀雄は寺の過去帳から小次郎の可能性が高く、小次郎殺害の話は、伊達家の一本化を図った政宗と母の共謀による擬装だったのではないか、とされています。

 政宗派と小次郎派に分裂していた伊達家中を一つにまとめるため、母に毒を盛られた芝居をして、表向きは小次郎を手討ちにします。そして、伊達家の血筋を守るため、小次郎を生かし、秘かに大悲願寺に逃したということです。

 過去帳によると、秀雄は寛永19年(1642)7月26日に没しており、その日の記録に、「秀雄は輝宗の二男で政宗の弟」とも書かれているそうです。伊達家の系図上では輝宗の子供は二男二女の四人だけですので、秀雄が小次郎と同一人物という考えもうなずけますね。

白萩文書とは

 白萩文書とは政宗が大悲願寺に宛てた書状です。内容は「先日訪問した時に、寺の庭に咲き乱れる白萩があまりにも美しかったので、株を所望したい。」というもので、日付は元和9年(1623)8月21日と推定されています。

 この書状の包紙に13代目住職海誉上人(かいよしょうにん)の弟子秀雄が伊達輝宗の末子であると記されているのです。

 元和9年8月21日は、母・義姫が亡くなった約1か月後です。母を同じくする弟秀雄(小次郎)と一緒に、母の思い出にふけりながら白萩を眺めたいと思ったのでしょうか。

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参考文献 『伊達政宗の素顔 筆まめ戦国大名の生涯』 佐藤憲一著