PR

伊達家に関係する名刀の話

 今回は伊達家に関係する名刀の逸話・伝説について紹介します。

伊達政宗と正宗~「振分髪」

 ある日伊達政宗が江戸城に登城した際、同席した藤堂高虎から、

「貴殿の脇差はやはり正宗の作でござるか?」

と尋ねられ、政宗は正宗作ではなかったにもかかわらず、思わず

「仰せの通りでござる」

と答えてしまいます。

 元々伊達家では正宗作の脇差を所有しておらず、自邸に帰った政宗は家臣に対し、

「今日殿中において、脇差は正宗作であるか聞かれ、そうでないともいえず仰せの通りと答えた。やはり人々は、この政宗の佩刀は正宗に違いないと思っているようだ。この先、人々に是非正宗の脇差を拝見させてくれなどといわれたら大恥をかかねばならぬ。そこで、秘蔵の正宗の太刀を脇差に打ち直そうと思うので、鍛冶の者を手配せよ」

と命じました。正宗の脇差は持っていないものの、太刀は所有していたため、それを短くして脇差に仕立て直せというものです。

 呼び出された鍛冶の者は、太刀を脇差に打ち直せとの命を聞くと、

「正宗の刀は天下にわずかしかない貴重な物です。むざむざと打ち直すのはもったいないことにございます」

と嘆き政宗を諫め、家臣の者達も様々に諫めるも、政宗の決意は固く承知しません。

 結局鍛冶の者は命令通りに打ち直したのですが、その正宗に「振分髪」と銘を入れて差し出したそうです。

 政宗がこの意味について問うと、鍛冶の者は、

「在原業平の『くらべこし 振分髪もかたすぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき』の歌の意から取ったものでございます」
(「幼き頃に比べた髪も長くなりました。あなた以外に誰が結ってくれましょうか」といった意味のようです。「正宗を打ち直すことができるのは政宗しかいない」といった意味でしょうか?)

と答えたため、政宗も感じ入ってこの脇差を「振分髪」と名付けたそうです。

 以上が名刀「振分髪」に関する逸話ですが、後世この刀を鑑定したところ、そもそも「正宗」作ではなかったそうですw(゚Д゚)w

妖刀備前長船則光

 応永(1394~1428)の頃、則光、康光、清光は「備前の三光」と呼ばれた名鍛冶であったといわれます。

 伊達政宗の家臣であった石川弥兵衛は「北の関ヶ原」といわれる慶長出羽合戦などで活躍した武将でしたが、この長船則光の刀を振るって幾多の戦場を暴れまわり、斬り倒した相手は70人以上に上り、その他辻斬りや手討ちで斬った相手も多くいたといいます。

 この2尺7寸の則光は代々弥兵衛の子孫に伝えられたそうですが、この刀は持つと不思議に人を斬りたくなるという妖刀で、代々の子孫も度々人を殺めたため500石であった禄は250石まで削られたそうです。

 そしてついに、悦之進という子孫の代のとき、11人を斬る事件を起こし石川家は断絶したといわれています。

 悦之進がこの則光で人を斬るのを目撃した人の証言では、6尺棒を持って打ちかかってきた相手を一太刀で斬り下ろすと、棒は真っ二つに割れ、相手も悦之進が刀を引くと同時に二つに分かれて倒れたため、見ていた者はその衝撃の切れ味に震え上がったそうです((((;゚Д゚))))


子沢山将軍家斉の子供押し付けと伊達家の反抗
今回はサンドウィッチマン伊達みきおさんの先祖に関係する話です。文政10年(1827)に仙台藩主伊達斉義はわずか29歳で病死してしまいます・・・
稲葉正休と堀田正俊と虎徹~江戸城刺殺事件
貞享元年(1684)、江戸城中で若年寄稲葉正休(まさのり)が大老堀田正俊を刺殺する大事件が起こります。