戦国の世が終わり、武断政治から文治政治に移っていくにつれ、武士特に徳川旗本の存在意義が薄くなっていきます。必要となったのは武人ではなく政治・行政のプロとなりましたが、その能力や意欲を持つ者は一部の者に過ぎませんでした。幕府高官である老中や若年寄になるのは譜代大名であり、その下で業務をするのは主にそれぞれの家来(陪臣)でした。
無理に役職を得て仕事をしなくても俸禄は貰えたことから、上級旗本は遊民化し、下級旗本・御家人は内職に精を出すことになります。
幕府、各藩も財政が窮乏する中、多くの旗本も例外ではありませんでした。先祖伝来の武具は質に流れ、武芸の修練より内職に励み、持参金を目当てに町人、豪農と養子縁組する者も多くいました。「旗本八万騎」ももはや幕府の足手まといになっていきます。
5千石(4千石藤枝外記?)の寄合旗本が遊女と心中し、「君と寝ようか、5千石取ろか、何の5千石、君と寝よ」と唄われたともいわれます。
廃れていく武芸
江戸中期になると、江戸で槍を持ったり馬に乗る武士を見ることが少なくなったそうです。馬に乗れずに駕籠を使う者が多くなったといいます。
十代将軍家重の代に旗本の武芸大会が行われましたが、将軍の面前で落馬したり矢を射損じる者も多かったといいます。一昔前ならば腹を切っていたでしょう。
武芸はもとより勉学に励む者も少なく、謡曲や能楽、更には三味線の稽古に精を出す者が多くなっていたそうです。特に禄を持たない部屋住みの次男三男は芸事で小遣い稼ぎをしたり身を立てることが多かったとも。
町人に憧れる
吉原でも貧乏な武家より裕福な町人がモテたといいます。野暮ったく「武左」と呼ばれ馬鹿にされた武士に比べ、流行の最先端をいく粋な髪型、着付けの町人は遊女たちに人気でした。なんと、モテる町人に憧れ、そのファッションを真似る武士も続出したといいます。
町人を養子に
生活が堕落、困窮した挙句、自らの家系まで売り渡すことに・・・。持参金目当てに町人を養子とする旗本・御家人が続出したため、天保7年にはそれを禁ずる令も出ています。
美意識高め?
武芸に縁遠くなっていく一方美意識は高くなっていったようで、文政10年夏から女性だけでなく武士も日傘をさす者が多くなったそうです。なお、5年後には「武家の輩日傘を用うべからず」との達しが出ています(>_<)
舟遊びの結果は?
明和元年(1764)の夏、小姓組の杉原七十郎正武という700石の旗本が仲間の旗本3名と連れ立って、朝から隅田川へ「水練の稽古」に行きました。
もちろんそれは名目で、実際は芸者を呼んだどんちゃん騒ぎの宴会だったのです。
一日中騒いでいるうちに、その杉原が酔っ払って川に落ちてしまったのですが、周りも酔っ払って誰も気づきませんでした。
後で杉原が溺死してしまったことが分かったのですが、仲間たちは届け出をせず知らんぷりをしていたのです。
さすがに旗本が亡くなった事件ですので徹底的に取り調べられた結果、事実が判明し、杉原家は改易、他の仲間の旗本も士籍剥奪となったのでした。
事件は評判となり、
舟に酔い 酒がすぎ(杉)原七十郎
七百石を川へ進物
との落首が広まってしまったのです。
酔っ払った結果は?
明和7年、佐々木市五郎との旗本が、同僚の河野徳五郎と一緒に酒を飲んでいましたが、酒がなくなったので下男を酒屋に走らせたのですが、夜も遅くなっていたため店は閉められ呼んでも起きません。
下男が帰って報告すると、酔っていた二人は、直接自分たちで行くことにします。
そして酒屋の戸を散々叩いたので、店の者も起きますが、無理に起こされたため文句をいいかえしてしまったのです。
二人は激怒し、失礼を働いた者を出せといい、店の番頭が散々詫びを入れたところ、「酒肴を出せば許してやる」と。たちの悪いゆすりに、番頭も腹を立て拒みます。
すると二人は怒り、河野徳五郎が刀を抜いて番頭に斬りつけます。しかし逆に、番頭がそこにあった棒を手に取り、刀を叩き落としたのです。すると徳五郎はその場から逃げ去ってしまいます。後にこのことが発覚し、徳五郎は遠島に処せられたといわれます。
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