平安時代の軍事制度はどうなっていたのでしょうか?
中には、桓武天皇が兵役を廃止したため、平安時代に軍隊はなかったとイメージされる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
今回は平安時代の軍事(兵役)制度について紹介したいと思います。
古代の軍事制度
古墳・飛鳥時代は、各豪族(国造)の私兵(国造軍)が軍事力の中心でした。白村江の戦いに出兵したのも国造軍の連合であったといわれます。
奈良時代には、律令制度、戸籍の整備により、徴兵制に基づく国軍となる「軍団」が設置され、全国に駐屯地が置かれてました。
そもそも軍団は唐や新羅に対抗したり国内の大規模な騒乱に備えて整備されたものでしたが、蝦夷との戦いは続いていたものの、実際には海外に出兵することはありませんでした。そのため、軍団の維持は国家と人民にとって重い負担となっていたのです。
桓武天皇の改革~軍団の削減と健児制の導入
延暦11年(792)、桓武天皇はこのような状況を改善するために、蝦夷対策の東北や唐・新羅対策の九州などを除いて軍団を廃止し、代わりに健児制(健児の制)を導入しました。
軍団制では正丁3~4人に1人の割合で歩兵を徴兵していましたが、健児制では、郡司の子弟や有力農民から志願者を選抜して騎兵中心の少数精鋭部隊を編成しました。なお、別に九州には選士1320人、陸奥には健士2000人をおいています。
1国当たり1個から数個あった軍団が1軍団で千人程度であったのに対し、健児は国に応じて20~200人が選ばれ、60日交替で国府の警備や治安維持に当たりました。軍団に比べて格段に人数が少なくなっており、民の負担軽減と兵士の質的向上を図ったのです。
その後の実態
しかし、荘園の増加などで朝廷の財政も逼迫し、健児への給与や装備の支給も滞るようになってきたため、次第に健児の数は不足し質も低下して健児の制も機能しなくなってきます。
やがて健児制から「国衙軍制」に移っていきます。国衙軍制とは、各国の国司が国内の有力者から兵士を徴発し、国衙(国府)に駐屯させる制度です。
国衙軍は、国司の下で治安維持や防衛に当たりましたが、国司自身も地方豪族と結びついて朝廷から離反することもあり、次第に国衙軍制も機能しなくなっていくのです。
それに伴って、土着した国司の子孫、郡司や有力農民たちは自分たちの土地や権利を守るために武装していきます。これが武士の起源とされています。
朝廷は地方の武士を侍として国司のもとに仕えさせるようになり、更に諸国の追捕使(盗賊や反逆者の追捕)や押領使(内乱などに際して兵士を統率)に任命して治安維持を担わせるようになっていきます。
こうして、平安時代は朝廷が国家的な軍事力を失い、地方の武力が台頭する時代へと移行していったのです。
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