大河ドラマ「べらぼう」の時代、ある大身の旗本が吉原の遊女と心中し、その旗本家が改易となる事件があり、江戸で大きな噂となりました。
旗本藤枝家
改易となったのは四千石の寄合旗本藤枝家です。
この藤枝家というのは、徳川家光側室の順性院(お夏)の父で京都の元町人から士分を得た岡部重家を家祖とする家です。
お夏は家光の正室鷹司孝子付きの女中でしたが、家光の手が付き男児を出産します。この男児は天樹院(千姫)の養子となり、成長後は徳川綱重と名乗ります。
綱重は4代将軍家綱の弟、5代将軍綱吉の兄、6代将軍家宣の父に当たり、甲府25万石を領し「甲府宰相」と呼ばれたことで知られています。
この血縁により、お夏の弟藤枝方孝(かたたか)が綱重に仕え、綱重の子家宣が将軍になったのに伴い藤枝家も幕府旗本となったのです。
藤枝外記(教行)
その後藤枝家は大身の寄合旗本として存続していましたが、安永2年(1773)、方孝の玄孫に当たる貞雄が24歳の若さで亡くなり、その際親戚の徳山家から養子に入って藤枝家を継いだのが16歳だった外記です。
徳山家は戦国時代柴田勝家の与力であった徳山則秀の子孫に当たる旗本で、外記の祖母が藤枝家の出でした。
藤枝家を継いだ外記は、旗本山田肥後守の娘を妻にもらい、三男一女をもうけており、夫婦仲は良かったのではないかと思いますが、いつの頃からか外記は吉原通いを始めます。
外記の心中
外記が入れあげたのは、吉原大菱屋の綾衣(あやきぬ)という女郎でした。
大身の旗本である外記ならば、身請けも可能だったのではないかと思うのですが、そう簡単にはいきません。
外記は養子であり、まだ養母も健在で大勢の古参の家臣もいたので、いくら当主といってもそこまで自由勝手にはできなかったのです。
さらに、上級旗本としての外聞や幕府の目もあり、一向に止めない外記の吉原通いについて、藤枝家中でも問題となってきます。
また、綾衣は花魁であったとも、新米の「新造」であったともいわれていますが、とにかく人気があったようで外記と別に通い詰める金持ちの商人もいたようです。
そこで外記は、なんと綾衣を吉原から連れ出し民家に匿います。
吉原の郭内から連れ出すのは簡単にはいきませんが、吉原が火事で焼け、仮宅といって別場所で営業していた隙を狙ってのことでした。
綾衣を連れ出したはいいものの、先の見えない外記に、更に追い打ちをかける事態が襲ってきます。
藤枝家内で、外記を座敷牢に押し込めようとする動きが出てきたのです。
当主を座敷牢?と不思議な感じもしますが、金銭的な放蕩は藤枝家の財政を圧迫しており、更に当主の不行跡を幕府に咎められれば藤枝家の存続にもかかわる問題となるのであり得ない話ではありませんでした。
外記は藤枝家中で追い詰められていき、また、綾衣も大菱屋の追手から身を隠し逃れる日々が続きます。
そして、天明5年8月14日、隠れ家の民家で、なんと外記と綾衣は心中したのです。
心中は御法度
ここで江戸の心中事情について紹介します。
江戸中期以降は、吉原の遊女と客など、男女の心中が流行しました。
主君や親への仁義忠孝以外の感情であり、幕府としてはそのようなものが流行ることは決して好ましいことではなかったことから、何とか防止しようと様々な施策を打ち出します。
まずは心中を美化させないよう、心中を題材とした芝居を禁止し、また、「心中」という言葉も美化されるとして、「相対死」(あいたいじに)と称するようにします。
更に、心中した死体は裸にして晒しものにします。心中に失敗した場合は、2人を3日間晒しものにした挙句、市民権を剥奪し乞食として扱い、心中し損ない片方が生き残った場合、一旦治療を加え平癒させた上で、殺人犯と同様に「下手人」として斬首されました。
なお、心中死体の晒しものは見物人がおびただしく混乱したためか、江戸後期では取りやめになったようです。
藤枝家の改易
外記の心中後、当然藤枝家では大騒動となります。当主が遊女と心中したことが幕府に知られたならば、いくら将軍の親類に当たる家系といってもどんな処罰がくるか分かりません。
慌てふためいた藤枝家は、家臣の進言によりとんでもない策を取ります。
検使の役人に対し、外記の養母や妻は、亡くなったのは外記ではなく家来の辻団右衛門であると虚偽の申し立てをしたのです。
しかしそうはうまくいきません。嫌疑がかかり埋葬されていた遺体の発掘検証が行われ、心中したのが外記であることが露見してしまったのでした。
この結果、藤枝家は改易となってしまいます。残った藤枝家の人々は親戚の元に預けられたそうです。
『寛政重修諸家譜』の藤枝家の項には、外記について、
「天明5年8月14日遊女を殺し、其身も自殺せしにより家禄を収められる。天明5年10月25日、先に教行変死のとき、明白に其始末を言上すべきところ、家臣等が申すにまかせ、教行が死骸をもって家臣辻団右衛門なりと偽り申せし。公に対し不束なりとて親族のもとに篭居せしめらる。」
と記されています。
この事件は江戸市中でも大きな話題となり、太田南畝の
「君と寝ようか 五千石とるか なんの五千石 君とねよう」
という唄が流行りました。
女性のおかげで起こった藤枝家でしたが、女性のために潰れてしまうという、なんとも皮肉な結果となってしまったのでした。
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