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藤原伊周の子~「悪三位」「荒三位」とよばれた藤原道雅とは?

 平安中期に摂政・関白であった藤原道隆の嫡男は、内大臣にまでなった藤原伊周ですが、その嫡男で、数々の問題行動を起こし「悪三位」「荒三位」とよばれた藤原道雅の生涯について紹介します。

中関白家の御曹司

 正暦3年(992)に生まれた道雅は、幼い頃は「松君(まつぎみ)」と呼ばれており、存命であった祖父道隆は、道雅を自分の所に度々呼んでは、その度に贈物を渡すなど、周囲に溺愛されて育ったそうです。

 やがて、長徳元年(995)に道隆は死去しますが、そのあとを継いで関白となった弟道兼もすぐに亡くなり、父の伊周は叔父藤原道長と熾烈な後継争いを繰り広げます。

 しかし、翌長徳2年(996)、父の伊周はその弟隆家とともに、恋敵と勘違いした花山法皇を襲撃する事件を起こし、大宰権帥に左遷されてしまいます。いわゆる「長徳の変」です。この変により、道隆の系統「中関白家」が没落する中で、道雅は育つことになります。

 それでもさすがは藤原家の御曹司、長保6年(1004)従五位下に叙爵後は出世を重ね、寛弘6年(1009)には従四位下に昇進します。

父藤原伊周の遺言

 寛弘7年(1010)、父伊周は失意のうちに亡くなりますが、死に間際、道雅に対し、

「くれぐれも見苦しい真似はするな。出世のために権力者に取り入って名を汚すようなことはするな。どうしても立ち行かぬようになったときは出家するだけだ」

と言い残したそうです。

皇太子の側近となるが

 寛弘8年(1011)には、三条天皇の即位に伴って春宮権亮(皇太子の側近)に任ぜられ、新春宮・敦成親王(のちの後一条天皇)に仕えます。

 しかし、長和2年(1013)、三条天皇の皇子・敦明親王(後一条天皇の皇太子)の従者であった小野為明を、敦成親王の従者に拉致させ自邸へ連れさります。そして道雅は、自邸において自ら為明の髪を掴んで周囲の者に打ち踏ませ、瀕死の重傷を負わせるのです。詳しい経緯は分かりませんが、その後、敦明親王から訴えがあり、道雅は謹慎処分に処されました。

 そうした乱暴な事件を起こす道雅でしたが、長和4年(1015)には左近衛中将に任じられます。翌長和5年(1016)1月、仕えていた敦成親王が即位し後一条天皇となった際に蔵人頭に任じられますが、1週間ほどで更迭されます。

 従三位には叙せられていますが、体のいい厄介払いといった感じだったのでしょうか。

三条院内親王との恋

 その後道雅は、同年の9月に、伊勢斎宮(伊勢神宮に仕える未婚の皇女)の任を終えて帰京した当時16歳の当子(まさこ)内親王と密通したことが明らかとなり、これを知った内親王の父三条院は激怒し、道雅は勅勘(天皇・上皇自らの処分)を受けます。

 通常内親王は皇族に嫁ぎますし、斎宮の任を終えたばかりという時期もあったのでしょう。

 この別れのときに道雅が当子内親王に贈ったのが、小倉百人一首にも選ばれている

「今はただ 思ひ絶えなん とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな」

(今はただ、あなたへの想いを諦めなければならないことを、人づてではなく、直接伝えることができないものか)

という歌です。

 ちなみに、小倉百人一首は、藤原道長の子孫の一人である藤原定家が、藤原道兼の子孫といわれる宇都宮頼綱の別荘である小倉山荘の襖絵の装飾のために選んだ歌が元になっています。

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 2人の仲を取り持っていた乳母も追放され、当子内親王は翌寛仁元年(1017)に出家してしまい、5年後には亡くなります。

 この後道雅は、紫式部の夫として知られる藤原宣孝の娘(式部との子ではありません)などと結婚しています。

花山院皇女の惨劇

 万寿元年(1024)12月、花山法皇の皇女である上東門院女房が夜中の路上で殺され、翌朝に死体が野犬に食われた姿で発見されます。

 この皇女は母の身分が低かったためか、一条天皇皇后であった藤原彰子(上東門院)の女房になっていたのです。

 この事件は公家達に衝撃を与え、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025)3月に、容疑者として法師隆範が捕縛されます。

 検非違使が尋問するも隆範は口が堅く、7月25日になって、なんと隆範は道雅の命で皇女を殺害したと自白したのです。ところがその直後の7月28日に盗賊の首領という者が自分が犯人であると自首してきます。

 この首領に対する拷問実施の是非について判断しかねた検非違使別当から意見を求められた右大臣・藤原実資は、自首犯に対して拷問を行った事例はないとして不要の旨を伝えたことが記録されています。

 その後この事件がどのように決着したのかは明らかになっていませんが、翌万寿3年(1026)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に左遷されています。やはり道雅が関係していたのでしょうか。

その後の道雅~荒三位・悪三位

 道雅は、翌万寿4年(1027)にも、高階順業という貴族の邸で賭博を原因として周囲を巻き込んで大喧嘩をしたことが記録されるなど、素行は変わらなかったようで、世間では「荒三位」「悪三位」などと呼ばれたのです。

 その後、寛徳2年(1045)に役職は左京大夫に転じますが、従三位から昇進しないまま、天喜2年(1054)に63歳で亡くなります。

 なお、道雅の息子たちは、貴族ではなく僧侶になっています。伊周の遺言が影響したのでしょうか・・・

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