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稲葉正休と堀田正俊と虎徹~江戸城刺殺事件

 貞享元年(1684)、江戸城中で若年寄稲葉正休(まさのり)が大老堀田正俊を刺殺する大事件が起こります。

稲葉正休と虎徹

 その日の朝、正休は自邸で周囲の家臣たちに対して、新たに拵えたという脇差の刃を見せ、「どうじゃ、切れそうか?」といい、医師が戯れて「これで人を斬ればいかなる名医良薬をもってしても助からないでしょう」と答えると、正休は満足した様子で「虎徹じゃよ」と美しい刃を見つめながら呟いてにっこりと笑うと、それを腰に差して登城したといわれます。

堀田正俊の刺殺

 登城後正休は、要件があると御坊主を大老の部屋にやり、出てきた正俊にスッと近づくと突然脇差を抜いて、正俊の脇腹に突き立てたのです。

「正休、狂ったか!」

との正俊の叫び声で、付近にいた老中、若年寄たちが異変に気付いて駆け寄り、即座に正休に斬りかかります。

 正休はズタズタに斬られながらも正俊を離さずに絶命したのでした。正俊もその日のうちに自邸で息を引き取ります。正俊は即死だったものの「殿中での死」を避けるための方便ともいわれています。

 稲葉家に引き渡された正休の遺体を家臣達が確認したところ、後ろから斬られた太刀筋7か所があり、例の脇差は切先が折れていたそうで、正俊を杉戸に押し付けてえぐったために折れたのだろうと、正休の強い意思を感じて落涙したそうです。

事件の原因

 そもそも正休と正俊は親戚同士であり、事件の原因は不明とされていますが、一時の乱心ではなく、脇差の用意といい正休は正俊殺害をあらかじめ計画していたようです。

 少し前に正休は家中の者に対し、
「我が家は随分お取立てされてきたが、近々更に加増されると内々にお話があった。屋敷も広い所に移ることになるので、引っ越しの際に取り乱すことがないようにいつでもこの屋敷から出ていけるよう荷物をまとめておくように」
と指示していたため、幕府の役人が屋敷を収公しにきたとき家中の者達は取り乱すことなく見事に引き払うことができたといいます。

 理由については様々な説がありますが、正俊の権勢を恐れた綱吉の内意を含んでの行為であるとか、正休の自発的な行為であるとか、正休が任せられた淀川改修工事の見積もりが高すぎて採用されなかったことに対する恨みであるともいわれます。

 なお、諸大名が堀田家に弔問に行く中、一人水戸光圀は稲葉家に弔問に訪れ、正休の老母に対して「正休は一命を捨てての御奉公をした」と慰めたといわれており、少なくとも光圀はそのような理由だと認識していたのでしょう。

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