安和の変で源高明を排除し、対抗勢力のいなくなった藤原氏ですが・・・・
その後は一族一致団結して立派な政治を志すわけでもなく、一族内部の争いに転じていきます(>_<)
天禄3年(972)11月、摂政・太政大臣であった藤原伊尹が病死すると、その弟の藤原兼通と藤原兼家(道長の父)が跡をめぐって争います。
兼通の方が兄でしたが官位は中納言で、弟である兼家が大納言であり上であったため、兼家が後継者に決まろうとしたところで兼通が切り札を使います。
兄弟の妹で円融天皇の生母であった安子の書付で「摂政・関白の位は兄弟順にするように」と記されていたものを出して明らかにしたのです。
これにより、天禄4年(973)、兼通が関白に就任しますが、2人は仲違いしたままとなります。
数年後の貞元2年(977)10月、関白であった兼通が重病におちいります。この時、兼家の牛車が兼通邸に向かってくると聞いた兼通は、
「日頃仲が悪くても見舞いに駆け付けてくれるのだろう」
と思ったそうですが・・・・。
なんと兼家の牛車は兼通邸の前を素通りしたのです。あらかじめ知らせが行っていることからも、わざと当てつけで嫌がらせをしたのでしょう。兼家はそのまま御所へ行き、兼通の後任人事について働きかけをしようとしたそうですが・・・・
兼家の行為に激怒した兼通は、重病の体をおして御所へ参内して天皇に奏上し、関白の位を従兄弟である頼忠に譲ったのです。更に、兼家が大納言と兼ねていた右大将の地位を奪います。
兼家が兼通の元へ見舞いに行ってたのならば後任に押されたのでしょうが・・・兼家は悔しがりますが後の祭りです(>_<)
兼通はその1か月後に亡くなりますが、出世して栄華を極めても、死ぬまで身内同士の争いを続けた人生は幸せだったのでしょうか・・・・
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