平安時代400年の間には、皇位争いや藤原氏による他氏排斥などで多くの政変が起こっています。今回は主な政変について簡単に紹介していきます。
薬子の変(くすこのへん)(平城太上天皇の変)
弘仁元年(810)、平城上皇が天皇への復位と平城京への再遷都を図って弟の嵯峨天皇と対立しますが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かして勝利します。
東国へ向かい挙兵しようとして失敗した平城上皇は出家、平城上皇の愛妾藤原薬子は服毒自殺し、その兄である藤原仲成は射殺されました。
承和の変(じょうわのへん)
承和9年(842)、権勢を保っていた嵯峨上皇が死去すると、藤原良房は皇太子であった恒貞親王を廃して、藤原氏の血を引く通康親王を立てました。
さらに、恒貞親王に近かった伴健岑、橘逸勢らに謀反の計画があるとして流罪にするなど他氏族も追い落としており、藤原氏による最初の他氏排斥事件とされています。
後に、通康親王(文徳天皇)と良房の娘との間の子である清和天皇が即位し、良房は天皇の外祖父となっています。
応天門の変
貞観8年(866)に応天門が放火され、大納言の伴善男は左大臣源信の犯行であると告発しましたが、藤原良房の進言により無罪となります。その後密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり伊豆へ流罪となりました。
この事件により古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落します。これも藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされています。
昌泰の変(しょうたいのへん)
昌泰4年(901)、左大臣藤原時平(良房の甥基経の子)の讒言により、醍醐天皇の廃位を企てたとして右大臣菅原道真が大宰府へ左遷され、道真の子供らも左遷または流罪にされた事件であり、これも藤原氏による他氏排斥事件とされています。
安和の変(あんなのへん)
安和2年(969)、源満仲らが「左大臣源高明(臣籍降下していた醍醐天皇の皇子)に娘婿の為平親王擁立の陰謀あり」と密告し、高明らは無実を訴えるも大宰権帥に左遷させられました。
藤原氏による他氏排斥の仕上げともいえる事件であり、以後、摂政・関白が常設され藤原氏の全盛時代を迎えます。
寛和の変(かんなのへん)
寛和2年(986)、前年に寵愛していた女御・藤原忯子を亡くして失意の中にいた花山天皇に対して、皇太子懐仁親王(後の一条天皇)の外祖父であった右大臣藤原兼家(道長の父)が天皇の退位・出家を画策、次男藤原道兼が天皇を謀って出家させた事件です。この後懐仁親王は一条天皇として即位し、兼家は摂政に就任しました。
長徳の変(ちょうとくのへん)
長徳2年(996)、寛和の変により出家していた花山法皇は、四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)の元へ通っていました。しかし同じ屋敷に住む三の君の元へ通っていた藤原伊周が恋敵と勘違いし、弟の藤原隆家に相談したところ、隆家が従者を連れて法皇一行を襲い法皇の衣の袖を弓で射抜く事件を起こします。
法皇は公にしませんでしたが噂が広まり、政敵の藤原道長によって伊周と隆家兄弟らは地方に左遷させられました。
後三条天皇による延久の荘園整理令
治歴4年(1068)に藤原氏の外戚を持たない後三条天皇が即位したことにより摂関政治は終息し、次の院政に繋がる土台が築かれました。
公領を圧迫していた荘園についてそれまで度々整理令が出されていましたが、自身が荘園領主でもある藤原氏の元では実効性がありませんでした。
後三条天皇による延久の荘園整理令では審査を行う記録所を設置し、国家公定の枡(宣旨枡)を定めるなど改革が進められました。
院政の開始
後三条天皇の子白河天皇は、応徳3年(1086)に弟の輔仁親王への皇位継承を嫌って幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになりました。
これ以降、鳥羽、後白河時代を含め約100年間院政が続くことになりました。
源平合戦へ
安元3年(1177)、院の近臣らが京都東山鹿ケ谷で平氏打倒の計画を立てましたが、計画は露見し一味は処罰されました。(鹿ケ谷の陰謀)
この後、源平合戦による動乱の時代に移っていきます。
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