菅原道真は学問の神様として有名ですが、実は日本三大怨霊の一人として数えられています。
菅原道真の栄華
道真は、平安時代初期の承和12年(845)に代々学者として名高い家に生まれます。
少年時代から秀才ぶりを発揮して数々の試験を突破、26歳で当時最難関の試験である方略試に合格しました。
その後、役職と官位の昇進を重ね、仁和2年(886)には讃岐守に任じられ、4年後に帰京した後は、当時の宇多天皇に気に入られ、更に昇進を重ねていきます。
昌泰2年(899)には、ついに右大臣となります。家柄が重視される時代では異例の出世です。ライバルであった藤原氏の時平は左大臣となり、両頭体制で政治を担っていきました。
大宰府への配流と死
ところが、宇多天皇から醍醐天皇へと時代が移ったあとの昌泰4年(901)に、突如醍醐天皇の廃位を企てたとの罪に問われます。
藤原時平の陰謀であるといわれますが、宇多上皇のとりなしも実らず、大宰権帥として左遷されてしました。道真には男女約20人の子供がいたそうですが、年長者は土佐や駿河へとばらばらに流され、夫人と女子は京に留められ、5歳の男子1人のみを伴って九州に赴いたそうです。
有名な歌である
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(意訳)春になって東の風が吹いたならば、その香りを私のもとまで送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、花が咲く春を忘れるなよ。
は道真が大宰府に流されるときに詠んだ歌です。
道真が赴いた当時の大宰府は建物も手入れが行き届かずあばら家同然で、栄華の絶頂から衣食住もままならない生活へと変わったのです。
元々丈夫でなかった健康状態も悪化し、栄養失調による脚気や皮膚病にも悩まされ、飲まなかった酒もあおるようになったといいます。
道真は許されることなく、絶望のまま2年後に大宰府でこの世を去りました。
怨霊とされた道真と祭神化
その後、時平や醍醐天皇の皇子などが次々に若死したりすると、人々は道真の怨霊の仕業に違いないと噂するようになります。当時は不幸が重なると祟りであると恐れられていた時代でした。
道真の怒りを鎮めようと、朝廷も既に死去している道真の罪を許して官位を追贈しました。
更に、延長8年(930)夏、日照り続きのため公卿が宮中に集まり雨乞いの相談をしていたところ、あたりがにわかに暗くなったかと思うと、突如閃光が轟き清涼殿の柱に落雷したのです。
ある者は衣服を焦がして胸が裂け、ある者は顔を焼かれ倒れ、またある者は髪を焼かれて死亡するなど、凄惨な有様となりました。醍醐天皇もこの衝撃で病に臥せり、2か月後に崩御するのです(清涼殿落雷事件)。
人々はますます道真を恐れ、北野天満宮などで祀るようになり神格化が進んだといいます。
実際道真が廃位を企んでいたかどうかはわかりませんが、少なくとも当時の人々は道真が無実であると信じていたから、祟りを恐れ怒りを鎮めようと祀るようになったのではないでしょうか。
なお、道真の各地に流されていた道真の子供たちは後に許されて京に戻り、子孫も貴族として活躍しています。
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