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寛和の変~藤原兼家父子の陰謀と花山天皇

 安和の変で源高明を排除した藤原氏ですが、その後は一族間での闘争を続けながら権力の座を追い求めます。

花山天皇の出家

 兄兼通との権力争いに敗れた藤原兼家(道長の父)でしたが、兼通の死後数年で復権し、虎視眈々と権力の座を狙っていたところ、永観2年(984)、円融天皇が花山天皇に譲位し、兼家の孫である懐仁親王が皇太子となりました。

 チャンス到来と、兼家は一刻も早い懐仁親王の即位を望みましたが、花山天皇はまだ17歳と若く元気です。

 なんとか花山天皇を退位させることができないか、日々策略を練っていたことでしょう。

 そのような中、寛和元年(985)7月に花山天皇が最も寵愛していた藤原忯子(弘徽殿の女御)が懐妊して実家に帰っていたところ、身重のまま亡くなってしまいました。

 花山天皇を退位させることに執念を燃やす兼家がこの機を逃すはずがありません。四人の子供たちと計画を練ります。

 そして、天皇の側近くに仕えていた三男の道兼(粟田殿・道長の兄)を使って、日々出家を促し、道兼も天皇と一緒に出家して終生側近くに仕えると説得を続けた結果、ついに天皇も出家を決意するのです。

 「大鏡」などによれば、寛和2年(986)6月23日夜、道兼に促されて花山天皇は御所を忍び出ようとします。

 ところが、
「月明かりで明るく目立つので今夜忍び出るのはどうか」
と天皇が躊躇すると、道兼は、
「もう神璽宝剣は皇太子にお渡ししました。今更止められませぬ」
と有無を言わさず先を急がせます。

 更に、藤原忯子からもらった文を忘れたのに気付いて取りに帰ろうとする天皇に対して、兼家は泣き真似をしてまで出立を急がせたといいます。

 道兼の苦労??もあり、策略通り天皇は花山寺(元慶寺)で剃髪したのです。ところが、道兼が剃髪する番になると、
「父に出家前の姿をもう一度見せに行ってきます」
と突然退出して立ち去ってしまったのです。
ここでようやく天皇は、
「私を騙したのだな」
と騙されたことに気付き涙を流したそうですが、後の祭りです(ノД`)・゜・。

 元々道兼は天皇に対し、
「出家後は弟子となって終生お仕えします」
と言っていたため、父の兼家は道兼が周囲の者から出家を強いられることを警戒して、源頼光ら屈強な武士を密かに護衛に付けており、寺の中では抜刀して道兼を退出させたといいます。

 天皇の側近であった中納言藤原義懐らは、宮中よりいなくなった天皇を大騒ぎで探していましたが、寺でしょんぼりと座っていた天皇を見つけることができたのは既に剃髪した後であり、やむなく一緒に出家します。

 こうして懐仁親王が即位して一条天皇となり、関白藤原頼忠も引退して兼家が天皇の外祖父として念願の摂政の位に就いたのです。

 そうして兼家は自分の子供たちを引き立てて出世させますが・・・・・

 懲りない藤原氏はその子供、孫達の間で権力闘争を続けていきます・・

こぼれ話

 天皇を騙してまで父のために働いた道兼ですが、後に兼家の跡継ぎは長兄の道隆となったことで父を深く恨み、兼家が亡くなった際は喪に服さず人を集めて遊戯に耽っていたといいます。道隆の死後ようやく道兼は関白になることとなり狂喜しましたが、わずか7日で道兼も亡くなってしまったのです。

 後世、道兼の次男兼隆も小一条院(敦明親王)を唆して即位を辞退させたこと(道長の意を汲んだものですが・・)で、帝や東宮(皇太子)のあたりからは「近づいてはならぬ一家」といわれるようになったとのことです(>_<)

 ちなみに、出家した花山天皇(法皇)ですが、清廉な生活を送っていたのではなく、別の女性の元へ足繫く通っていたため思わぬ事件「長徳の変」に巻き込まれてしまいます(>_<)