紫式部の弟(兄とも)藤原惟規は、父為時に従い赴いた越後国で死去しますが、その子孫はどうなったのでしょうか?
今回は、平安末期に名を残した惟規の子孫について紹介します。
藤原邦綱~平清盛の盟友
惟規には、貞職、経任の2人の息子がいましたが、貞職のあとは、盛綱、盛国と続き、玄孫に当たるのが藤原邦綱です。
邦綱は、保安3年(1122)に生まれ、摂政・関白・太政大臣を務めた藤原忠通(藤原道長の来孫・5代子孫)に仕えると頭角を現し、家司として活躍します。
摂関家の知行国であった播磨国等の国司を歴任し、財政面で摂関家を支えるとともに、自らも莫大な財を蓄えたのです。
優れた経営手腕で忠通を支えた邦綱でしたが、一方、武力で忠通を支えたのが平清盛でした。
邦綱と清盛は盟友のような関係となり、邦綱の息子清邦が清盛の養子に、娘の輔子が清盛の息子重衡の妻となったほか、清盛の娘で、藤原忠通の子近衛基実の妻となった盛子の後見を邦綱が務めます。
また邦綱は、摂関家や清盛との結びつきのほか、4人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母として皇室との関係も深め、権大納言まで昇進し、「五条大納言」と称されるのです。
惟規の系統で公卿に列したのは、惟規・紫式部の曾祖父で中納言であった藤原兼輔以来でした。
豊かな財力を背景に平氏政権を支え福原遷都計画にも協力しますが、やがて治承5年(1181)に清盛が没すると、後を追うように19日後に邦綱も亡くなります。
なお邦綱は、近衛基実が死去した際に摂関家の所領や財宝の多くを、基実の妻で清盛の娘であった盛子に相続させることに尽力したことがあり、基実の弟九条兼実に激しく非難されていましたが、その兼実も邦綱の死に関しては、
「邦綱卿は卑賤より出ずと雖も其の心広大なり。天下の諸人貴賎を論ぜず、其の経営を以て偏に身の大事となす。ここに因りて衆人惜しまざるはなし」
と、その人物・能力を評しています。
藤原輔子~夫平重衡との涙の別れ
邦綱の娘藤原輔子は、平清盛の五男平重衡に嫁ぎ、後に安徳天皇の乳母となります。
治承・寿永の乱(源平合戦)が起こると、夫の重衡は平家の将軍として転戦し、その戦いの中で南都焼討により東大寺などを焼失させてしまいます。
寿永2年(1183)に平家が源義仲に敗れると、輔子は重衡とともに都落ちしますが、翌年の一ノ谷の戦いで平家は源義経に敗れ、重衡は捕えられてしまったのです。
逃げのびた輔子は、元暦2年(1185)3月、壇ノ浦の戦いで安徳天皇や他の女たちとともに入水しましたが、助け上げられ、輔子も捕らわれの身となってしまいます。
結局輔子は解放され、山城国日野(京都市伏見区)に隠棲することになりました。
一方、捕虜となっていた重衡は一旦鎌倉まで送られますが、焼討に遭った奈良の僧侶たちが、源頼朝に強く引き渡しを要求していました。
結局、鎌倉から奈良へ送られますが、途中、日野の近くに差しかかった時、輔子の生存を耳にしていた重衡は護送の武士に、
「私には子がないので思い残すことはないが、この近くに妻がいるはずなので、今一度対面させてもらいたい」
と最後の情けを乞い、武士たちも涙してこれを許します。
対面した輔子は「夢か現実か」と涙を流して重衡を招きいれます。重衡は、
「一の谷で討死すべき身が、伽藍焼却の報いか囚われて恥を晒し、更に南都へ送られ斬られることになった。貴方にもう一度逢いたいと思った願いも叶い、もはや思い残すことはない。」
といい、髪を剃って形見として残したいがそれも叶わないのでと額に垂れた髪をひと房噛み切って、輔子に渡したのです。
輔子は、
「壇ノ浦で入水し死ぬべき身でありましたが、貴方が死んだとは聞きませんでしたので、今一度お逢いすることができるかもしれないと、それを頼みに生き長らえてきました。では今日が最後の別れとなるのですか。」
と涙を流します。輔子は粗末な衣服をまとっていた重衡を白の狩衣に着替えさせ、それまで着ていたものも形見とし、最後に別れの歌を交わしました。
重衡「せきかねて 涙のかかるから衣 後の形見に脱ぎぞ替えぬる」
輔子「ぬぎかふる 衣も今は何かせん 今日を限の形見と思へば」
重衡は「因縁あれば、来世では必ず一蓮托生の身となりましょう。」と言い残して、すがる輔子を残し立ち去ります。
輔子が泣き叫ぶ声が門の外まで聞こえたので、重衡はなまじ逢うべきではなかったかと後悔もしたそうです。
その後重衡は奈良の使者に引き渡されます。奈良では、重衡を仏敵として鋸引きで首を切るかなど評議されましたが、残虐な方法は仏徒としてよろしくないと、結局は木津川の川べりで斬首されたのです。
重衡の首は晒されましたが、後に輔子が首と亡骸を引き取り、日野の地で荼毘に付して供養したのでした。
その後、輔子も出家して重衡の菩提を弔い、京の外れ山中の寂光院に出家し隠棲していた建礼門院(平徳子:清盛の娘、安徳天皇の生母)に仕えました。
後白河法皇が建礼門院を訪ねた際は、院が花を摘み、輔子が薪と蕨を持って帰ってくるところであり、栄華を極めた時代とは全く異なる慎ましい暮らしをしていたようです。
輔子はそのまま建礼門院らと共に、亡くなった人の菩提を弔いながら余生を過ごし亡くなったといわれています。
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