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長州藩士の回顧談~明治政府海軍創設と宮古湾海戦~維新戦役実歴談から

 宮古湾(宮古港)海戦は、箱館戦争における戦闘のひとつで、明治2年(1869)3月25日に盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)沖の宮古湾で発生した戦いです。

 海上戦力で新政府軍に対して劣勢に立たされていた旧幕府軍は、新政府軍の主力艦である甲鉄への斬り込みによってこれを奪取する作戦でした。

 この時甲鉄の士官であった長州藩の山縣少太郎が、維新50年を記念して述べた回顧談を紹介します。

新政府軍海軍の創設

 そもそも自分は第一丙寅丸の乗組員で大坂に居たが、江戸で幕府の軍艦を引き渡すのでそれを受け取れとの、大村先生(益次郎)の命令が4月11日にあった。

 当時第一丙寅丸の船長が後の海軍少将杉盛道氏で、士官は山田土方という人と自分とで3人、機関士には後の海軍機関大佐篠原が居た。

 幕府の軍艦を受け取るには丙寅丸の乗員だけでは人数が足りないので、艦長だけを残して士官全員と乗組員半数を江戸に送ることとなった。

 それから薩摩の船に乗って大坂から東京に来た。その時には三条さんや西郷さんも一緒に来られた。

 江戸に着いたが、幕府では容易に軍艦を渡さないので、それからとにかく芝の青松寺に行った。自分たちは水兵と機関兵を合わせて23人だったが、船が無いので陸兵と一緒にいたところ上野の戦争が始まったので状況を見ていた。

 上野の戦争が終わると兵隊は奥羽の方へ行ってしまい、その時南部の船で飛隼丸というのが品川に来たから分捕れとの命令があり、品川沖で分捕った。

 小さい船で、大坂から来た者は皆一緒に乗っていた。

 更に、旧幕府の逃げ遅れの船で飛龍丸という船があったからそれも分捕って、それでようやく海軍というものが成り立った。

 また、浦賀にあった仙台の船が廃船同様になっていたのでそこから武器などを取って飛隼丸と飛龍丸へ積んだ。

 そのうちに長州から中島四郎氏(後の元老院議官)が海軍兵を率いて軍艦受け取りのために来られたが、船無しだったので飛隼丸と飛龍丸へ乗った。

 それから榎本釜次郎の脱走兵を討ちに行こうとなったが、向こうは回天、開陽という優勢な船があるので、それに対抗する用意をしなければならない。

 そのうちに、横浜でアメリカの船を一隻売ろうというのがあったから、その船を安く三万両で買って、飛隼丸、飛龍丸から皆乗り移った。

 ただしこの船は大砲が小さくて仕方がない、そこで長州の大砲で三田尻(山口県防府市)に残してあるのがあったから、その大砲を積みに行って、また東京へ帰ってきた。

 そのうちにアメリカの「ストーンウォール」という鋼鉄鑑(後に東鑑)に乗り移った。そのため、横浜で買った「ガンボート」(後に武蔵鑑)がいらぬようになったから薩摩の方へ渡したが、その船は後に品川沖で沈没してしまった。

 それから丁度良いことに、脱走して逃げたうちの開陽丸という最も優勢で向こうでも中心となる船が北海道の江差で沈没座礁して、あとの大船は回天丸のみとなったから、とにかく行こうということになった。

宮古湾海戦

 当時味方の軍艦は鋼鉄鑑と薩摩の春日鑑と長州の第一丁卯鑑で、その他には軍艦らしい船はなかった。

 今の船と違って速力馬力等もごく弱く風浪の激しい時は航海が非常に困難で二回まで館山の沖まで出て風浪のため引き返した。

 三回目にようやく乗り出すことができたが、また途中で手間取ってなかなか早く青森まで行けそうにないから、一旦南部の宮古港へ避難した。

 ところが、敵の奴もこちらの船が出て行くことを知ったと見えて途中で戦闘を交える目的で回天丸、第二回天丸などの鑑が出てきたが、こちらが宮古港に避泊していることを知って、4月25日の未明に宮古港に入ってきた。

 丁度その日はこちらでも出港しようという日であったが、出港に至らないうちに戦闘するようになった。

 回天は始めアメリカの国旗を掲げて入ってきて、ごく近くに来てから日の丸へと変えた。回天は鋼鉄鑑を乗り取ろうという目的であったらしくいきなり鋼鉄鑑に横付けするように持ってきて、こちらの艦に飛び乗ろうとしたけれども、鋼鉄鑑より余程舷側が高いために容易に飛び降りる事ができず、3人ばかり飛び乗った者は皆撃ち殺されてしまった。

 また、向こうから大砲を撃ったけれどもあまり近すぎるのとこちらの艦が極く低いのでちっとも差支えはなかった。

 また、小銃はこちらからも撃ち、相手からも撃ったけれどもよく当たらなかった。

 そのうち、阿波の船で陸兵を乗せた運送船が一艘いたが、その船から小銃を以て回天丸を撃ったため敵は大変弱った様であった。後で聞いてみると、この攻撃が大変に効果があったようであった。

 約1時間の戦闘の後、敵は目的を果たさずわが運送船からの攻撃が激しかったため遂に逃げ出したから、こちらからも追いかけようとしたけれども、蒸気が十分でなかったため中々思うように早く進まない。

 とにかく春日鑑と鋼鉄鑑で追いかけたが回天丸は速力が早いのでついに影を見失ってしまった。

 だが第二回天丸が逃げ遅れて宮古港からすぐ近い一里か二里の所で乗り上げて、乗組員は上陸して逃げてしまった。

 それで鋼鉄鑑からは自分が、春日鑑からは今の東郷平八郎元帥が行き二人で中を見たが中には火が付けてある故にこれを見捨てて帰ってくると、その艦はついに爆発してしまった。

 後で聞いたところによるとに乗組員は陸に上がってから捕縛されたそうだ。

函館の戦い

 回天丸は函館に帰ったのであるが、函館港には水雷が出来ているということですぐに行けない。

 とにかく青森港へ入った後は江差に回航して福山の松前城を陸兵が攻撃するのを船から応援した。

 今の寺内総理などは江差におって始終海軍に助けられたということです。

 それからの順序はよく覚えていないが、青森に帰って更に函館へ行って戦闘に従事した。なかでも一番に激戦だったのは函館の台場に行って戦った時で、自分もやはりこの折に怪我をした。そのため艦内で始終寝ておりましたからその後のことはよく記憶しておりません。