大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変は水戸の脱藩浪士によって引き起こされましたが、襲われた彦根藩ではなく襲った側の水戸藩の動向にスポットを当ててた逸話を紹介します。
変の一報
小石川の水戸藩邸に桜田門外の変の一報があったのは事後1時間半ほど経った午前10時頃だったそうです。まずは水戸藩の者が井伊家の行列に斬り込んだとの報であり、やがて大老の首を取ったとの報も届きます。
藩士の招集
次々と届く報により水戸藩邸でも次第に事態が明らかになるとともに、彦根藩が今夜復讐のため水戸藩邸に来襲するとの噂も流れたため、慌てて総出仕令を出して藩士を藩邸に集めて防備を固めたそうです。
水戸殿御使
直弼は病気!!
直弼の首は討たれたのですが、白昼堂々大老が江戸城門前で暗殺されたとは言えないので、死は秘して病気として公表されます。
これは水戸藩にとってはますます困ったことになります(>_<)。というのも、幕閣の重役が病気の場合、御三家をはじめとした列候は見舞いの使者を立てるのが通例であったためです。
彦根藩の来襲に備える一方で、見舞いの使者を送らないわけにもいきません。
通常その使者は当直の使番が担当することになっており、当日の当直であった
・楠弟之介 250石 28歳
・伊東元太郎 250石 30歳
の2名が井伊藩邸に赴くことになりました。
決死の人選
通常使番の供は、それぞれ若党2人、槍持1人、馬丁1人、草履取1人で、正使の楠、副使の伊東合わせて12名が行かなければなりません。
水戸藩邸では「この使者たちは生きて帰れないだろう」となりましたが、供の者も含めて襲撃されたときに狼狽して逃げ出すなど見苦しい様があっては水戸藩の名折れになると悩みます。
結局、腕の立つ士分の侍を馬丁や草履取に仕立て上げ、更に徒目付大河内熊之介とその供も加えられ、計18名の一行を送り込むことになったのです。
使者たちはそれぞれ藩邸長屋に住む家族たちと別れの水杯を交わし、午後6時頃に桜田の井伊藩邸に向かったのでした。
井伊藩邸での茶番劇!?
途中の道筋で襲われてもおかしくない状況の中、無事に井伊藩邸に辿り着くと、草履取役が先駆けて「水戸殿御使」と表門に叫び、井伊家でも「水戸様御使」と表門を開き迎えます。
使者は下馬して門内に入り玄関に進むと諸大名からの見舞いの使者でごったがえしていたようですが、さぞ注目を浴びたでしょう。
使者の間へ案内されると、例によって型通りの応対を受け、御三家であるので重役が使者口上を受けることになります。
井伊家家中にとっては憎き仇の相手であり気色張った態度で出迎えたようで周囲にも緊張が走りますが、
「掃部頭殿御病気の趣承り使者を以て御容態御見舞申し上げます」
と水戸藩側が見舞いの進物を差し出し、井伊家側は低頭平身し
「主人掃部頭病気に付、御使者を遣わされ有り難き幸せに存じ奉る。医師見立てもよろしく心配には及ばず、この段御披露願いまする」
と型通りの口上を交わします。
通常ならばここから普段言葉での懇談に移るのですが、使者の楠らは刺すような視線の中、即座に退出することとします。
背中傷だけは・・
一行は小石川の水戸藩邸へと帰路をとりますが、邸内で襲われなかったことで決して安心していたわけではなく、元々襲ってくるならば帰路の可能性が高いと思っていたそうです。
直弼殺害の現場となった桜田門外も通過しますが、井伊家の襲撃はまだありません。
死ぬ覚悟はできているものの、名誉だけは失いたくないと緊張は解けませんが、足早になってしまうと水戸の一行は怯えていると思われしまうので出来るだけ堂々と進みます。
また、背中傷を受けてしまうと敵に背を向けて逃げたと思われて恥になるので、背中傷だけは受けたくないと背後に警戒しながら進んだそうです。
道中ところどころに胡散臭い侍の集団を見かけたので、井伊家の襲撃者かと警戒するも襲ってきません。
結局そのまま襲われることなく藩邸に到着したのですが、死ぬつもりであった使者一行は逆に死に花を咲かせられなかったことを残念がる者もいたといいます。
使者は襲われなかったものの、藩邸への襲撃があるならば今夜であろうと警戒を続けますが、結局何もないまま終わったのです。
なお、彦根藩では水戸藩邸に討ち入ろうとする強硬派を抑えて騒乱を起こさないことが決せられ、道中にいた胡散臭い侍たちは、実は幕府が配置した警戒員であったということです(>_<)
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