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長州藩士の回顧談~白河・会津戦争~維新戦役実歴談から

 明治維新から50年後、維新50年を記念して、戊辰戦争に従軍した人々から回顧談を集め「維新戦役実歴談」として編纂されました。

 今回はその中から、長州兵士として白河から会津にかけての戦争に従軍した斎藤太郎という人の回顧談を紹介します。

白河戦争

 私の覚えておるのは、蘆野滞陣中、4月25日白河攻撃というので、薩長藩兵の選抜隊は本隊に先立ち25日明け方2時でもあったろうと思う、そこで夜だから目印として薩州は左へ赤い布を着けまして長州は白い布を着けたが、薩州の兵は多いが長州はいたって少ない。

 それで薩州と長州とが混じって出発していったが、その白坂の手前に境の明神といって奥州との境があるが、そこに大きな棒杭があって、これより東会津領と書いてあったところが、薩州がこれは不都合だというのでそれを刈ろうとするがなかなか刈れやしない。

 そこで番をしておった奴を引っ括ってそれから白坂を下りて行ったが、白坂には敵がいる燈火が見えるから斥候をやって探ったが、やはり居らぬというわけであって、又白坂を越えて今度は白河の入り口の所に水田がある。その中に縄手がある。

 そこに行ったところがやはりここに篝火を焚いている者がいる。それを捕えたところが、もう夜が明けはじめて敵からドンドン大砲を撃ち出した。

 いつもと違うぞといって本道を駈足にて進んだところが、白河の入口には台場が築いてある。敵は大砲を乱射し、これにもかかわらず台場に駆け付けたところが夜が明けてきた。

 私共はそこから3,400メートル後ろに居た。水田の中に本道があり、そこへ行くと前へ行った兵は皆死傷しているというような有様。もういけない。そこで銃は口込銃だがそのでは寝て込めるので焔硝は溢れる。いくら撃っても当たらない。

 ところが中津井作七、安藤乙熊という者が、はじめから死ぬなら一緒に死のう、一人どちらかが死んだから一人が首を提灯の中へ入れてきたが、又その者も死んで実に困ったもんだ。

 私も足と短刀の柄を撃たれたからどうしようかと考えたがとにかく俘虜になっては仕方がない。また居ったところが怪我をしては働くことが出来ないから鉄砲を持って這っておよそ300メートル位戻ったところが弾薬方をしている三浦清八がまたやられた。その人は手を撃たれた。

 24日の晩までに仙台兵が白河に到着し新潟にて購買せし後発銃を分配したということであった。それゆえ敵の兵力は優勢となり我々は包囲せらるる姿となり退却しようとしても向こうから槍鉄砲を持った奴が向かってくる。これは困ったものだと思ったがようやくのことで本隊の居る所へ戻った。

 これではとても帰るわけにはいかぬ。君は手を怪我したので逃げられるが俺は足を撃たれたのだから仕方がない。俺をころしてくれぬかいうがそうもしない。

 そこで百姓家が一軒あってそこへ行って幸い俵にて拵えた鶏の鳥屋を刀で切り落とし木を切って担架を拵え、大垣藩の人足と思うが、これで俺を担いで行け、でなければ斬ってしまうというと、一人担ぐ奴ができたが一人では仕方がない。今一人担ぐ奴を外から引っ張って来てもらってようやく蘆野に帰った。

 伊地知参謀その他薩人が沢山応援に来たけれども、とてもいかぬから退却をせいという命令がきて途中で戻ったが官軍は大敗北で白坂位までは皆戻った。それから今度は5月1日再攻撃ということになったが、怪我をした者は蘆野の病院に居る医者といっても碌な医者は居りはせぬから随分困った。

 それからその時の編成は36人の小隊ということは覚えている。

 蘆野病院に1日2日居ったけれども私共は軽傷だったが重傷者の傷口を焼酎にて洗うので痛い痛いと言って騒ぐのを聞くとその痛い痛いという声でこちらも頭が痛くなる位でとても居られない。

 それから負けたのが残念ゆえもう一遍行ってみようと思って私は杖をついて歩けたから黙って目代へ行って駕籠で白坂へ向かった。

 病院では私はもう治ったから本隊へ行くという者、皆行けという者もある、また君は行くことは出来ぬから待てという者もあったが、私は行くというので駕籠に乗って行くと、向こうは篝火を焚いている。

 敵だろうか味方だろうかと思って行ったところが幸いに向こうから知っている者が来ておい誰じゃ、私じゃというようなわけでまず助かった。

 それから白坂へ行って白河の攻撃だというのであったが、25日のやり方はいかぬというので今度は三方から行った。薩州は本道、長州は湯本口、白河の西方へかかった。

 敵を撃退しつつ白河町の西北に侵入した。この時本道の方面には鉄砲の音が盛んに起こり敵はついには挟撃されることとなり退くことが出来ないようになった。そこで長州兵は背後より挟撃し敵は進退きわまりほとんど戦死または自ら腹かききって山から転がり落ちる者もあり敵ながら可哀そうに思った。

 この日敵の屍は800からあった。雨の降るときなどは焔火が上る、暗い晩などは恐ろしい有様であった。そのうちに屍はエタなんかに片付けさせ埋めた。

 我々は金を持っておらず雨が降っても雨具は無し。それゆえ雨笠などをかぶって雨がやむと笠は捨て、敵に出合えばポンポンやり出す。必要な場合には余所の家の笠でも無断で借りるというような有様でいたる所に雨具もあり着るものもある。

 服制というものも無し。ただ錦の肩印と東山道総督の印と記しある肩章を着けて官軍を標章するにすぎないので実に乱暴窮まるものであったが誰も別に小言は言いはしない。

 糧食は仙台の道明寺と鶏卵を沢山持って来ているがそれを運ぶことが出来ぬので官軍は分捕と唱え各々勝手に行って取ってくるとか、また宿へ帰って食うとかいうような事であった。

 白河占領後薩州は勢至堂、長州は鹿島口を受け持ち守備することになり勢至堂は会津街道で鹿島は白河東北阿武隈川上流の路白河西端より棚倉街道にあるのである。

 私共は毎日歩哨として白河東北の川の堤やら水の中へ入って歩哨となり交代の兵がないため誰も交代に来てくれないから朝から晩までやっていると蚊が食う蠅が来る足はヒルが食う困った。

 某日前面の敵を攻撃しに行ったがその時はドンドンやっていると雨が降り出した。弾薬運びの人足の言には「今日はあなた方が勝ち」という。

 何で勝つか、向こうは火縄で鉄砲を撃つのだから雨が降っては鉄砲が役に立たないから負けだと言ったが、はたして火縄の銃を持っている者もあり元込銃を持っている奴もあった、つまり銃器は一定していなかったようである。

 こっちは毎日戦闘ごとに怪我をして入院する者がますます多く、ことに長州兵は少なくなるし敵は何時も薩摩長州といって相手の強い会津米沢兵ばかりを向けるらしい。

 けれども薩摩は兵が多いからよいがこちらは兵が少ないから危険が多い。それからどこぞの隊から応援してくれというと土州兵が応援にくる。来たときはいつも敵は逃げたというようなわけで毎日毎日やっている。

 その間には間諜捕縛のため不時の敵襲と唱え諸隊を集合せしめ間諜の帰報する者を捕え相撲取りを捕縛してそれの首を斬って薩州の兵がその肝を食うから是非来いと言うが人間を食うわけにはいかぬからこいつには困った。同藩の戦友が来て食うてはいけない、食うては目が飛び出るというてやめた。実に野蛮極まりたることであったが各藩とも士気は実に強勢であった。

 白河滞陣中は毎日のごとく戦闘を交え夜は要路に篝火を焚くので篝火を付けるとポンポン撃つから篝火が焚けない。

 某日西島助義氏、伍長位であった、大垣の隊と協議し十人ばかりにて毎夜篝火を妨害する敵が天幕を張っているから多分昼間は寝ておると考え襲撃したところ、今後は会津口の本隊がそっと出て来てこちらは逃げられぬ。

 そのうち福島一松という者は頭を撃たれて倒れる、西島と私は根田村という所にて深田に入り西島の携帯せし手旗を他の中に隠してようやく敵弾を逃れ本隊へ帰った。この銃撃で薩兵が沢山駆け付けたがこの日はついに本戦にはならなかった。

 わずか斥候のごときものが本戦を引き起こす如き実に我々の慎むべきことと考えた。その中白河の敵の勢が衰えまた東京上野の戦争も終わり諸藩の兵は白河へ来たり、これと交代して私共の隊は棚倉へ行くことになった。

二本松攻め

 私共分かれの第一小隊が東海道より江戸に入ってきて上野戦争が終わって白河に来た。それと一緒になって今度は6月だと思うが棚倉の途中に金山というのがあった。

 それで棚倉攻撃ということになって行きましたが、もう会津兵も白河は取れぬと諦めたかこの方面の兵を棚倉方面へ廻したるものと見え棚倉街道の金山という村の西南の山上より少し大砲を撃った。

 ちょっと戦闘をして棚倉でも僅か抵抗して城へ火を付けて逃げてしまった。これが6月24日である。棚倉に居ったのは20日位、それから今度は7月26日に三春に行きました。

 三春は官軍に鉄砲を撃ったりしてはいかぬというのでズンズン行ってしまった。それから三春で一夜泊まって今度は二本松攻撃となった。

 それが7月28日私共の二本松へ行くまでは何事もなかった。途中小濱という所へ一夜泊まって翌日安達ケ原の婆が居ったという所へ出て行った。

 そこは阿武隈川の右岸、薩摩などは左岸の敵に対しドンドン川へ入って渡っていく。種々雑多な風をして鉄砲を担いで二本差して飛び込んでいく。溺れて流れる者もあり、私の飛び込んだ所は胸位であったが行くにしたがって向こうが深い。

 頭だけ出して行ったがよく怪我しなかった。佐久間左馬太氏の下流に副てやっていく仕方がなければ刀も鉄砲も捨てて死ぬばかりと思って泳いでみたところが泳げない。すぐ沈む。再び浮かび上がってみたら先に上がっている者が竹か水竿かを突き出していた。それで助かった。

 とても攻撃どころじゃない。衣類を絞ったりして一休みしていたが、二本松の城下は真ん中に山があってそれが本街道である。

 我々の隊は城の東側から侵入したところが、城門外馬建に日本馬具を置いた2,3頭立派な馬がいたからその馬は俺が取るぞと言っていたが、向こうから鉄砲やら弓を撃つから石垣に引っ付いていて撃てないようにし、ぐずぐずしているうちに馬なんぞは何処かへ行って分からぬようになってしまった。

 それから城門の中へ入ろうとしたが、皆門が締まっているので薩州の兵が石垣をごつごつ登って行って中から門を開けたが、もう一つ中に門があった。また薩州が門を開けて城の中へ入ったところが朝飯を食いおった。

 飯を食いかけたのが槍刀やら鉄砲を持って抵抗し一時乱戦であった。そのうちに殿様も逃げたらしい。そこには味噌汁もあれば茶もある、湯も沸いている。

 何か着る物はないかと探すと納戸のような所に長持があるから鉄砲でドカドカ長持を叩き壊してみると、殿様の定紋付きの紋付が沢山ある。これに着替えて褌迄替えるというようなわけで、着て行った物はかなぐり捨ててそれを着けて出てきた。

 薩州も皆奥の方へ行って赤い縮緬の着物を引き出して着て「これを見い、よいだろう」と言いながらゾロゾロ出てきた。実に滑稽千万の話である。薩州には分捕隊というものがあった。

 そのうちに兵士が城の中で沢山の物を分捕っていると、城のあちらこちらに火が付き始めて危ないから城外に飛び出し、そのうちひどい音で火薬庫が爆発する。城は皆焼けて敵は城山を越えて何処かへ逃げて行った。

 それから街へ行き勝手次第に宿を取ったが、妙な事で私共は世良修蔵さんなんぞが泊まっていた所へ泊った。それで二本松も大した戦闘も無かった。

 二本松が官軍の時は世良さんはこの方面の参謀で非常に優待せられたそうであるが、4月25日に官軍は白河にて敗走したため二本松は直ちに賊軍となり、それがため世良さんたちは各個に服装を変え非常に辛苦して福島方面に逃げ出したという話を聞き残念至極に感じた。

 白河滞陣中は毎日のごとく戦い死傷者ができる。それゆえ隊の人員は減る、健康者の勤務は増すしこれではやりきれない。なまじ怪我でもして入院した方がましと考えたことも度々ありましたゆえ、怪我をした者には悦びを言うという次第でありました。

 白河の攻撃のあったのは11日間程毎日毎日やっておりました。朝から晩までやる。とくに薩長方面に対する敵は最も強い会津米沢兵が多数でして、我が受持線は広し、人員は少なく敵を撃退するということは中々容易ではない。

 幸い降雨でもあれば大変都合がよい。敵の火縄の日が消えるから攻撃が弛む。ただし過半数は後装銃を携帯しておりましたから困難したことが多かったです。薩州の人では黒木、河村、大迫大将方も白河に居られたということであります。

会津戦争

 会津へ行ったのが8月23日から9月23日まで丁度30日程城を囲んで戦った。会津に行くときは須賀川から母成峠を越えて猪苗代へ行ったんです。

 この母成峠の戦争は激しいといったら激しかったが夜などは猪が出てきたりして戦闘しつつ岩の間で一夜を明かしたことがある。なんでも右の方に高い山があり、その方で鉄砲の音がする。

 そこへ進んで行ったところが台場も拵えていれば色々準備がしてあって、すっかり炊き出しをするところもできていた。そこへ上がって朝食をしたことを覚えている。

 そこは間もなく落ちたから猪苗代へ下りて、そうして湖水口の所に十六橋という石橋の架かっていたのを敵が逃げしなにその橋の向こうを落として行ったから渡れない。そのうちに薩兵が敵を追撃し材木などを持って来て渡れるようにしてそこを渡って会津の城下の見える所まで行って原で一夜露営をしてそれで会津城下へ攻め入ったんでした。

 けれども会津の城が焼けない。いつも敵は逃げるときは城へ火を付ける。これは怪しいと考え城下へ入れば果たして敵は籠城し市街と城中の戦となったから、城壁に接近して戦死した者の屍骸は落城まで取ることができない有様であった。

 戦争中は握飯で平素は当たり前の物を食っている。とにかく飢えていなかった。それに隊には輜重方があるから相当に食っておった。

 それから会津が落ちて会津の城受け取りには長州と薩州が行ったのです。私共は参謀の護衛として城受取に行きました。城内には官軍より発射せし大砲の破片が山ほど積んであるし、又会津は漆の名産地ゆえその漆の樽を並べたり穴を掘ったりして隠れ場としておりました。

 女は襷掛けで整列しておったと思います。ところが誰かが婦人の悪口を言ってえらいこと遣りつけられたので会津の婦人はえらいと思った。

 それから私共は会津討ち入り当日諏訪の森という所に向かいここに隊長らしき人が戦死したおった。近づいてみれば指揮旗を持ち刀時計も立派なるものを持っておった。

 安藤という者が時計を欲しがるゆえ僕には刀をくれと言うて立派な刀を取って、それからのち友達の居る所に刀屋が居って何か話しているから刀を見せてやろうと思って見せたところが、その刀屋の老爺が妙な顔をして
「この刀はどこから持ってきたか」
と言うから
「私は知らぬが私の友達が持っておった刀だ」
「左様でございますか、どうかこの刀を私に頂戴できませぬか。この刀は私のお出入の旦那の注文で拵えたので銘はこうでございましょう」
「その通り。そうかそういう物とも知らぬで友達から渡してくれたが、実はその旦那という人は諏訪の森付近で戦死したらしい。とにかく恩人の刀とあればここですぐやるというわけにはいかぬ。いずれ相談してお前にやることにしよう」
と言うてその後彼にやったが非常に喜んでおった。その侍が大分目を掛けておった奴らしい。

 それから34,5歳位で侍の奥さんらしいのが12,3歳位の男の子供を連れて我々の進んでいるところへ出て来てウロウロして
「何処へ行ったらあなた方の邪魔にならないだろう」
という。
「ここにじっとしておれば撃ちはしないから」
と言ってそこに居らしたところが、そのうちにそれの姑が来て「敵に助けてくれとは何事だ」
と言うから
「この糞婆ころしてやろう」
と言ってころして溝の中へ放り込んでやったが、この婆は偉い奴であるというのでほとんどそこが歩哨の通り道であるから
「この婆偉い奴じゃ、偉い奴じゃ」
と言って通るようなことも何べんもあったのだが、会津の婦人は立派なものと考えた。

 そのほか我々が焼跡で夜間番兵をしているとき草履を履き薙刀を持って番兵を襲いに来たことも2,3度あった。また城下討入の日諏訪の森で主従7,8人自殺したのもある。敵ながら実に感心と思います。

 時が経過するに従い官軍は諸方から会津に来て城の包囲は堅固となりそのうち肥前藩は三里程もいく大砲を持って来たというので、東山へ大砲を据えて城の中へ撃つのだけれども、他の藩の方では小さい弾丸でそれにはかなわぬ。そこで三里もいく大砲だというからこれはよいというようなことであった。

 城の大手と街とは4,5丁もありましたが、食う物がないから侍屋敷の池などには鯉鮒が飼ってあったから人足を連れて行って夜の明けないうちに魚を捕ろうとすると途中で向こうの奴が城から出て味噌や香の物などを取りにくるという様な滑稽もあった。

 会津はなかなか強情で落城するまで時の鐘をつきおった。朝から晩までえらいことにはあのような騒ぎにもかかわらず始終時の鐘をついて平気なことを装ったが、9月中旬頃からは夜な夜な女の悲声を聞くようになった。

 諸方面の官軍は会津に来て城を包囲して銃砲弾は昼夜間断なくあられのごとく撃たれ、糧食は欠乏し実に困難な目的なしの籠城をしたが、さすが会津と感じた。

 それから会津が済んで仙台へ行けというようなことで二本松へ帰ってきて、それはやめになって東京へ帰ってきてしまったが、会津は初めから籠城しておったが、白虎隊は到頭派遣しておったのが城の中へ入られぬからああいうことになったのだろうと思います。

 会津が降伏してから降伏した人はなんでも何時間かのうちに猪苗代へ皆行けというのだ。その外の者は時間を与えられて翌日位に行く。すぐ城を引き渡して猪苗代へ殿様はじめ皆行かしてやったと思う。

 この猪苗代は母成の敵を追撃しつつ通ったばかりでよくは知らぬが会津の末家ではないかと思います。

 その時分に城中に籠城しておった人がいよいよ降伏という事になって整列したところを見れば随分沢山残っておったように思います。前にも話したとおり婦人が中々すごくて婦人が本気になればどんなものか知らぬと思った。

 全体から言うと会津米沢の者は強情だから戦争になれば強い。それゆえ女も同様と考えます。戦争中は一人になっても逃げはしない、死ぬまで戦うという風であります。

 当時の戦争では確実なる上官の命令というものも無し。敵が来ると「そら来た、行け」と言って受持場所に駆け付け戦友互いの協同動作で戦いましたが、あんなことでよく戦いができたと思います。それが皆二十歳にもならぬ者が多かった。

 今から考えてみればその当時の経過を筆記していたならば面白いお話もできましたと考えますが、その節は今日のごとき便利な手帳鉛筆も無し、何が何やら訳が分からず戦争したので順序だったお話は無論できません。

 ただしお尋ねによって当時一兵卒の私がほのかに記憶しておることで実際とは違うておることも沢山ありましょう。その辺はよろしくお断りしておきます。