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徳川将軍の実話~将軍御小姓明治の回顧談

明治24年に東京帝国大学の学者らが旧幕府関係者から聞き取り調査をした『旧事諮問録』から、将軍の日常生活について御小姓組であった人の話を紹介します。

【応答者】
元御小姓頭取 坪内定益
元御小姓御目付 松浦信寔
【補訂】
元御小姓頭取御側御用取次 竹本要斎(正明)

御小姓とは?

(御小姓とは、どういうものでありますか?)

御小姓とは、将軍家御側向きのことをいたしておる役であります。

(御小納戸とは、いずれが上格でありますか?)

(答)世間では御小納戸の方が重いと思いましょうが、御小姓の方が格式は上であります。御小納戸の方が上格とおぼしめすのも無理のないところで、たとえば御上洛の節など、宿々に触れを廻せば、御小姓の方が下がった宿を取り、御小納戸の方が上等の宿を取りますから、それで御小納戸の方を上格と思っておるのであります。

(補訂)御小納戸は、席順は御小姓より次ですが、御小納戸頭取は千五百石高の諸大夫ですから、全く一つの規定役です。平の御小納戸中にも奧之番という掛りは、頭取に次いでの規定役で、女中に接することはもとより、表役人とも引合い、また、奥坊主、奥陸尺等の支配をします。

また御膳番という掛りは、御膳所向きへ引合い、且つ奥医者を差配します。これを両掛りと言い、いずれも老練中からの人選です。したがって、御小姓の年輩者をなお御小納戸に命じ、これらの役をさせることもありました。

こうしたわけゆえ御小姓は子供役で、御小納戸の方に権威があるという風もありました。また御小姓は頭取というも一役ではなく、一カ年頭取金として各百両を賜うだけで、その関係するところは、ただ御腰物方、御数寄屋、御絵師に限られていました。

(答)御小姓中、諸大夫になりますのは、最初は五人位でありましたが、後には沢山になりました。布衣以上諸大夫になりまして従五位になりますが、小姓頭取はむろん諸大夫でございました。平の小姓も三年目ほどには諸大夫になりましたのであります。かの紅葉山の御参詣などの束帯の時は、お太刀とお刀の両方持ちます。すなわち四位の高家がお太刀を持ち、御小姓がお刀を持つのであります。そのお刀を持つ功によって大夫に叙せられるのであります。

(補訂)お太刀と申すは奥高家の役ですが、御錠口内は御小姓が仮勤を勤めます。お刀を持つは始終御小姓の役であります。

(お刀は普通一般のお刀でありますか?)

(答)お刀は普通のお刀で、お太刀は真のお太刀であります。お刀持ちとお太刀持ちと両方、あとに並んで参りますのでございます。

(束帯の時でも両方でありますか?)

(答)左様、二重になるようなものであります。

(お手道具などの出納は、誰の扱いでありますか?)

(答)お道具は、そこに出ているものは僅かであります。多く大切の什器は数寄屋坊主と申す者が、その預かりで多門(倉庫)にあり、奥の方の道具の掛りは、御小納戸の奥の番の預かりであります。何々を出してこいと御下命があれば、御小納戸に出して貰って、御側廻りのこと、すべて御小姓がいたすのであります。しかし御小姓も同道で出して来たこともあります。つまり道具の預かりは、御小納戸奥の番の掛りになって、保護していたのであります。その出ている品数を改めて出納をいたすのは、みな御小姓がいたすのであって、書簡でもちょっとした道具でも、そこに出ているものは、わたしどもが取扱いましたのでございます。

(御小姓頭取と普通の小姓との差等がありますか?)

(答)別に頭取と申して変わりはございません。しかし御小納戸の方は余程違っておりました。御小姓頭取は表の控はいたしません。御小納戸頭取がいたしまして、表と奥の気脈を通じるのは御小納戸頭取がいたします。やはりこれも諸大夫の者であります。

(表の控をするところから、御小納戸頭取はそれがために権力のあるものでございますか?)

(答)権力はございます。

御小姓の規則

(小姓になる時は誓紙血判でもいたしますか?)

(答)いたします。

(補訂)笹の間でいたしたのでございます。御小姓は御小納戸より命ずるのに限る。ただ御側の倅のみ部屋住みより直(じき)に御小姓となる。これは切米五百俵にて役料なしの例なり。

(将軍の起居言語等はいっさい他に漏らさんという法則がありますか?)

(答)まず漏らさんという原則であります。政事向きに関することは一言も口出しすることはならんというので、ただ御小姓は小間使いをしておればよろしいというので、それは誓詞中にも書いてあるのであります。故に何か申そうと思えば、切腹でもする気でおらんければならんのであります。

(そこで根津宇右衛門などが出たのでありますか?)

(答)左様、あれも分外のことをいたしたからでございます。その後、御小姓に岡部(駿河守長常)という者があって、これが直に申し上げたことがございます。慎徳院(十二代将軍家慶)時分のことで、ちょうどアメリカの船の来る前でございましょう。

(補訂)この時はお人払いを願い、ただ御小姓頭取竹本長門のみを立合わせ、何か政事向きのことを申したので、駿河は切腹する覚悟であったのであります。しかしそれが大層よろしうございまして、評議中部屋控にて、何の咎めもなくすみまして、のちに暫くたって御目付に引上げになり、長崎奉行、外国奉行、大目付となりました。ひそかに承るところによれば、女色飲酒について摂生の事、女官縁故の人を内願によって登用する事等を諫めたものであったようです。

(御勤役中の過失は厳でありましたか?緩でありましたか?)

(答)過失の次第にもよりますが、鞭撻などがあるというようなむつかしきことはありません。大切なお品を預かっていて、それを毀損したとか、すべて御意に入りのお品を毀損したというような時は、御譴責を蒙りますが、それがために非常に叱責せられるというようなことはおぼえません。しかし小姓の出ている所には、必ず頭取が一人おりますから、過失の次第によって、小事たりとも後に悪い筋のことであると、差控えを命じることもあります。而(しこう)して職を免ずることもあったのですが、まず主に過失は、措いて問わざる方が多いのであります。

将軍の衣服

(お召物は日々お着替えになりましたか?)

(答)着物のことは細かにお話しすると、よほど入り組んでおります。やはり朝お起きになりますと、寝衣と着替えるのであります。

(平生の服は始終新しいものでありましたか?)

(答)以前は新しいものでありましたが、しかし財政困難の時節となりましてより、随分よごれたものもありました。それで日々御先祖御代々の御参詣をいたされます。その時は紋付を着て拝をいたされました。その時分は必ず紋付に袴を着けました。それは奥之番、その下に奥坊主中お召方という掛りのものがございまして。着物の掛りをいたしております。御小納戸の人間が平日番をいたします。これは下方の御納戸役でございます。

(それでは日々御参詣をなさるのでありますか?)

(答)それは下々で申す仏壇でございます。刻限は午前九時頃になりますと、掃除もできまして、将軍家には紋付の着物に上下、或いは継上下を着て、拝をいたされたのでございます。着物などはまことに驕らんものであります。上下などは、ふつう下の方は裾が縫ってありますが、将軍家のは切り放しでございます。これは古い形を取ったものと見えます。袴は精好(せいごう)、或いは唐桟(とうざん)でございます。裏は茶まるでございます。代々の御忌日等には、麻上下に着替えます。

(唐桟は渡り物でございますか?)

(答)渡りでございますが、古渡りでもないのでございます。打裂(ぶっさき)羽織は、あやすぎ小紋の木綿、のちには黒の木綿ときまっておりました。丸羽織もまず尋常は木綿でありまして、裏は甲斐絹や何かでございました。これは着たり脱いだり便利のよろしいようにいたしたのでございます。わたくしどもは絹の羽織は着たことはございません。あれは寛政時分の古い式が残っておったものと見えます。わたくしどもは羽織は木綿にきまっておるものと思っておりました。御召というのが縞縮緬か、八丈くらいのものであります。下々で御召縮緬というのがありますが、あれは以前将軍家で着ましたから、御召というようになったものと存じます。それで下々で用ゆるような洒落た着物がないので、変わった他の色は用いません。縞は種々ございますが、まず縞縮緬で、おもに黒ずんだものでございます。紋付は多く羽二重でございます。

(それでは諸藩の方が、かえって驕っておりますね。)

(答)左様かも知れません。

(補訂)それは人にも依りますが、一体に藩主は、営中ではそういうことは出来ませんが、自宅ではよほど奢ったものでございます。そして御小姓、御小納戸などは、みな”着下がり”と申して、下されたものであります。

(答)将軍家でも、やはり”納戸払い”と申して、歳末に一度ずつ、着下がりそのほかのものを組合わせ、くじでこれを下されたものであります。

(薩藩では、夜具までもやはり下がりました。それはよほど立派なものであります)

(答)夜具などは至って質素なものであります。

(文恭院(十一代将軍家斉)様はだいぶん衣食住のことは、御贅沢であったろうと思いますが)

(答)あの時分のことは、わたしは存じませんが、やはり似ておりましたようでございます。たいてい上着が縮緬、下着が八丈ときまりがあって、そのほか何が着たいとか、何を拵えたいとか、先例と変わったものは、出来ないようになっておったのであります。ただ、よごれたのは度々洗濯をするというのであります。

(補訂)ほかに郡内縞がありました。これは按摩を取らせる時か何かでありました。

(夜具には袖があったのですか?)

やはり下々と同じことであります。無地であって、表は縮緬であります。お蒲団は水浅黄みたような縮緬で、裏は鼠羽二重でございます。ただ、下々ではたくさん綿を入れますが、将軍家では厚いものも薄いものも両方たくさん拵えておいて、暑い時分は一枚、寒い時分は何枚も掛けるというのでありました。

(補訂)緞子(どんす)の夜着もありしが、綿七百匁入くらいにして大夜着なり。酷寒といえども用いたること少なし。

将軍と中奥・大奥

(大奥においでの時は、いかがでありましたか?)

(答)奥と表との間に錠口(鈴の口)がございまして、そこが奥と表との界(さかい)になっていて、その処を扱う者があります。奥から女が出て来て、こちらから男が出て行き、そこで何かお携えの物でもあれば、向こうへ渡して持って行くというのであります。わたくしどもは錠口までは行けませんでのあります。道具を扱っておる者で老年の者が、錠口まで行ったものであります。すべて物は、御錠口という役の女と、奧之番との渡し合いになるのであります。

(老中、若年寄は大奥まで行けますか?表だけでありますか?)

(答)御座の間(中奥)までは、御用の時は参ります。ただ無暗に参ることは出来ません。御用の時に限るのであります。以前、側衆という者がありまして、旗本では一番高官でありました。その中から御用御取次という者があって、二,三人ありまして、それが老中なら老中の誰それが、将軍家に拝謁をしたいといえば取次ぐのであります。それは御小姓頭取、御小納戸頭取には出来ません。そして御座の間でお逢いになるのであります。

(将軍家が中奥から大奥へ入らせられる刻限は何刻くらいでありますか?)

(答)刻限は、きまりは別にありませんが、朝五ツ半(九時)には、まず大奥の仏壇に毎朝御参拝にお出になるのでございます。それからすぐ中奥にお出になるのであります。たいがい一日のうち、三分の二以上は中奥にお在(いで)になるのであります。もう少し大奥に入らせられるとよろしいと、わたくしどもは思っておりました。

(中奥は幾間くらいありますか?)

あまり広くはございませんが、間数にいたしますると、将軍家のお在(いで)になる所と、小姓の居る所とで、よほど広いものでございます。御休息という間があって、やはり一段高くなっておる所があって、何から何までで百畳くらいは敷けましょう。そこが中奥の表立った所であります。その先に御座の間がありまして、そこは一層角立(かくだ)ったことに使うのであります。そこで老中、若年寄方にお逢いになるのであります。広いけれども間数はありません。ただ、御座の間、御休息、御小座敷、御用の間の四間切りであります。

(御休息の間には、お机でもありますか?)

そこは何もないのであります。中奥の中の表立った所であります。それより後の方に小さな座敷がありまして、そこにお机などがありまして、書見をなされたのであります。しかしお在になる所は、どこといってきまっておりません。御休息というのはつまりお居間で、中奥での御寝(ぎょし)はここでなさいます。

(そこには御小姓は何人くらい附いておりましたか?)

二十人一日に出勤して、そのうち十人位が出てお附き申すのであります。それも交代でするのであります。人数は総計三十人位であります。

(補訂)一番頬、二番頬と唱え、隔日の当番なり。又この内を二つに割り、半時、すなわち今の一時間毎に代るを常とす。

(夜は小姓方の勤めは、その日の当番の人が宿直になりますか?)

(答)左様、朝は十時が交代刻限でありまして、今日十時に出勤して、その夜通して翌日の十時に帰るのであります。

(補訂)午前十一時が交代時刻なり。

(夜は小姓方も蒲団を敷いて寝ますか?)

(答)寝ます。もっとも不寝番があります。不寝番は御小納戸、御小姓の両方ともありました。

(夜具は自身で持って行くのでありますか?)

(答)左様、自弁であります。

(毎日持って行くのでありますか?)

(答)置き据えでございます。もっとも汚れれば宅へ持って来て取換えるのであります。

(御同朋は?)

これは表の方であります。御坊主の方も、奥坊主、時計の間坊主、御用部屋坊主と三色になっていて、御同朋は表役でありまして、御老中、若年寄の御用をするものであります。平素将軍家に関係はありません。今の時計の間より先の方で、御同朋の頭はなかなか権力のあったもので、例の紅裏(もみうら)の着物を着ていました。

(中奥と大奥の境界は何と申しますか?)

(答)御鈴口(おすずぐち)(御錠口)と申します。

(銅で囲いのしてある所とは、どこでありますか?)

(答)それは女ばかりの大奥と、男ばかりの中奥との間に建てられた塀のようなもので、厚い板塀を鋼を以て包んだものであります。

(そこは御広敷とは関係ありませんか?)

(答)御広敷は大奥の方に附いておるので、つまり大奥の内玄関の中でありました。

(御錠口は毎日錠がおろしてありましたか?)

(答)それは存じません。

(補訂)男の方より錠をおろすなり。

(奥之番と切手番とは違いますか?)

(答)違います。奥之番は御小納戸を勤め上げた者でありますが、切手番は御広敷勤めの者であります。

御小姓の役目

(すべての御礼式の時は、御小納戸、御小姓の職掌の区別は、どんなものでありましたか?五節句や年頭などの儀式は?)

(答)これはやはり表に係わったことでありまして、御小姓の方はこれだけの区域をする、これだけは御小納戸がするというようであり、よほど込み入っております。ただ、表出御という時は、御小姓は御帳台に入っておりました。

(御小納戸の方は?)

(答)御小納戸は御座の堅めの方をするのでございます。今の御休息から一番近い表立った所を御座の間と申すのでありますが、御小姓の方は御帳台におりまして、御小納戸は外におるのでございます。

(お盃の時は、お酌はいかがなものでありますか?)

(答)その辺のことは細かでございまして、大方そのようなお話もあるだろうと思って、書付を持って参りました。(「御小姓頭取留書」を出す)

(お盃、杯洗などの持ち運びは、どこからいたしましたか?)

(答)それは入側からするのであります。外の者はグルリと廻って、御帳台にはいってしまうのであります。御小姓が御帳台におりましても、きまり切ったものでありますから、別に用はありません。まず非常のために備えておるのであります。

(御帳台は戸が締まっておりますか?)

(答)戸は明けてあります。

(御帳台に入っておる人は、よく見えますか?)

(答)御帳台の中では、よくは見えません。

(御帳台は立派でありますか?)

(答)大坂、また二条の城にもありますが、その形を取ったものであります。しかし一番立派なものは大坂でありましょう。

(御帳台には蒔絵がありますか?)

(答)蒔絵はありません。ただ金物があって、やはり鍍金(めっき)でございます。戸を明ける処に、大きい赤い総(ふさ)があるのであります。大坂の城の総を見ましたが、それは焼けまして、のちの保存のために仕舞ってあったのでありますが、二百年もたったもので、真紅の総で、今出来たように鮮かに見えました。

(あなた達がお勤めになっているうちは、御親戚中の往来は、あまり出来ん規則でありましたか?)

(答)これはごく近しい所だけでありました。親子、兄弟、叔父甥、妻の実家は公然と行けましたが、従兄弟などは行けません。御小納戸の方は従兄弟まで参られました。

(奥儒者は大分むつかしいものでありましたか?)

(答)なかなかむつかしい規則があったそうでございます。かの成島柳北が話しておりました。これは御三卿(清水、田安、一橋)までは行くことが出来ましたが、御三家(尾張、紀伊、水戸)へは行けません。営中で逢っても挨拶も出来んというのであります。元田(永孚)なども容易に人に交際しなかったというのも、やはり前の奥儒者の規則を履行したのだという悪口もありました。以前の奥儒者は、成島に安田作太郎の二人でありました。

(今のお話の叔父甥のほかは往来は出来んというのはどういうわけか、また特別に許しでもあればよろしいのでありますか?)

(答)これはただ規則であります。大方これは始めのうち、方々へ行って、何か不行跡なことがありでもしたものと見えます。中には酒でも飲んで乱暴をしたり、或いは機密を漏らしたこともあったから、だんだん身動きのならんようになったものと見えます。御小姓は同役でも往来は出来なかったのであります。御小納戸は、仲間参会はよろしいのでありました。

(さほど窮屈なれば、御小姓になるときは、迷惑と思っておりましたか?)

(答)迷惑とは思いません。少し栄誉職のようなものでありまして、それほど御用はなくとも諸大夫になれるのでありますから、表の方で諸大夫になるのには、よほど骨を折らなければ諸大夫にはなれません。御小姓の方は大した学文もいらず、ただ年を経れば、自然と諸大夫になるというような、つまり株みたようなものでありました。またその力によって表役にでもなれました。御小姓になる時は、堅い誓詞を書いておきながら、政事向きのことをするのも、おかしなものでありますが、このくらい役に立つから目付にしようとか何とかいうので、御目付などに出ることになります。故に御小姓にはいったら一生涯御小姓で朽ち果てるというわけではないのであります。どうしても出世が早うございます。

(転役をするには御目付が一番よろしいのでありますか?)

(答)左様、どうしても御目付は少しは何か出来んではいけませんし、また政事に関係しますから、大概のものは直ぐ御目付になることは出来ません。御目付はなかなか骨の折れたものでありますが、技術も充分にあらわせる役でもありました。

(御小姓頭取は何人位ありましたか?)

(答)頭取は六人、多い時は七人位でありました。たいがい六人位であって、交替に三人ずつ出ておりました。

(その中の人材を選り抜く人は誰でありますか?)

(答)それは将軍家の御自選もありますが、まず老中、若年寄などの鑑定でありました。

(御側衆という者は?)

(答)これは将軍の代によって、よほど権力のあったもので、老中、若年寄へ御用の取次は、御側衆で何もかもやるのであります。

将軍の食事

(将軍の召上り物の残りを、諸大名に賜わることがありますか?)

(答)左様、何かそういうことがあったそうでございます。それは御膳番という者があって、これは御小納戸の中でございますが、それが掛りでございまして、調理をして、塩梅を見て出すのでございます。

(御膳番は幾人おりましたか?)

(答)詰めておりました者は、やはり三名ずつ位でありました。

(御料理はいかがでありましたか?)

(答)御料理向きは存外お粗末なことにて、わたくしどものいまだ御小姓を勤めませぬ時の考えとは、大いに相違いたしまして、もう少しは御馳走のあることと存じたくらいであります。もっとも、あまたの手を経て参りますから、その元はよほど入費も掛かるということでございますが、召上るのは僅かであります。

(御食事の菜物(副食物)はきまっておりましたか?)

(答)それはきまっておりました。御膳番の献立はきまっていたようで、別にお上(かみ)より御嗜好の物の御注文もなかったように見えました。しかし稀にはあったかも知れません。大概はおきまり通りのように存じます。御菜物の色数が余計に出ました故に、その中に御嗜好のものもあれば、お嫌いの菜もあったのでございましょう。

(御起床は何時頃でありましたか?)

(答)以前の六ツ時(午前六時)位にお目覚めになりました。

(朝飯を召上る時刻は?)

(答)五ッ時(八時)でございます。いまだ御壮年にいらせられました故、なるべくお気侭にならぬようにとなっておりましたが、漸次お年を召したらお気随も出ますし、それはもう誰人(だれびと)も左様にございますから。

(御昼食は何時頃でありましたか?)

(答)お昼は通常午刻(ここのつ:正午)でございましたが、御老中などから政事向きのことなどお聴きの時は、昼餉もなさらずして、只今の三時頃までも召上らぬことがありました。平素はやはり只今の十二時に召上りました。

(御夕食は何時頃でしたか?)

(答)点灯(ひともし)頃でありました。

(御酒はいかがでありましたか?)

(答)きまって召上りはいたしません。平日はただ御飯だけでありました。必ず御膳部に附けるというきまりはありません。わたくしどもの勤めております時分には、召上るのは常に稀でありました。と申して、まったくお嫌いでもなかったのでありましたが、やはりお一人のお酒盛りゆえ、自然御興もうすい道理でございます。

(お酒を召上がる時は、御小姓方はお側にて見ておるのでありますか?)

(答)左様でございます。しかし、時によりまして小姓がお相伴をいたすことがありましたが、滅多にはありません。小姓のうち一人か二人位、たまにお盃を頂戴することがありましたが、その時は余の小姓はただ見ておるのであります。

(御飯は普通の炊(かし)ぎでありましたか?)

(答)御飯は蒸飯であります。米を笊(ざる)に取りまして、沸騰する湯の中に入れて煮上げまして、更にそれを釜にて暫く蒸すのであります。味は至って淡泊のもので、恰も饁(かれいい)と申すようなもので、饁は一旦煮て乾して、乾飯のようにして、それを沸騰した湯の中に入れて、そしてまた暫く蒸しておくと飯になるので、これも至極淡泊なものであります。

(そのお給仕をいたすのは、御小納戸でありますか?)

(答)やはり御小納戸が給仕をいたすので、御前とか飯櫃などは運びますのであります。御小姓は両方に座して、拝見をしておるのであります。

(補訂)御飯の盛替えは御小姓頭取がする。

(三度のお食事の器物は、いかなる物でありましたか?)

(答)器物は粗末なもので、椀の如きは世間に売っている普通の、外側の黒い、内側の赤い色の椀でありました。

(補訂)御精進日には内外黒塗りの器なり。

(容器は大きいものでありましたか?)

(答)それも普通でありました。鄭重過ぎるような品ではなかったので、御馳走も沢山はなかったようであります。膳の上には平(ひら)に、汁に、香の物に、肴くらいのものでありました。時としては二の膳の附いて出ることがありました。鯛の焼いたようなものが出ておりましたな。

(別に御嗜好の物もありませんでしたか?)

(答)あまり御嗜好という物もなかったようであります。多少お嫌いの物もあったでしょう。御鷹野か何かあって、鴨が取れたという時は、召上ったようでありました。しかしこれも御保養でありましたから、御嗜好というわけではありません。

(徳川家は、食事などは一体に淡泊な方であったということで、家康公は浜名納豆を御嗜好であったそうで、のちには毎朝御仏前に、必ず浜名納豆を供したということですが、左様でありましたか?)

(答)左様であったかも知れません。度々湯豆腐などを召上ったことを記憶しております。いかにも御質素なことにて、いまだ御壮年にいらせられましたが、肴ばかり召上るのでもなく、やはり菜の浸し物のような物も召上りました。梅干漬のような物もありました。別のお話でありますが、以前、日本橋の肴商から、無代にて毎日肴を御台所へ持って参るので、不漁の時は難儀であると、内々苦情を申していたそうでありますが、御維新後に聞きただしますと、それだけの恩顧がありますので、何千坪とかの地面を無賃で貸し与えてあったのだそうで、その代りに毎日お肴を納めていたのであるということでありました。

(補訂)無代償にはあらず。多少にかかわらず定価の有りしなり。もっとも、廉価なること、たとえば鰹一本三百文というが如し。故に御納屋を恐れて隠しなどせしことなり。

小姓を勤めるには?

(あなたは御小姓を何年程お勤めになりましたか?)

(松浦)私は一カ年半位でありました。

(坪内)私は四年程でありました。ちょうど子年に申付けられ、また頭取にまでなりました。

(御小姓は朝廷では侍従の役で、みな大臣方の御子息とかいうのが多いので、旧諸藩では家老、用人とかの鑑定で、その子息などが見当でありましたが、幕府の方も頭取の選択でありましたか?)

(答)ごく昔は大名から小姓をするようになっておりましたということで、その後は旗本の中からで、やはり親が御側を勤めておるとか、番頭をしておるとかいうので、ふるくから小姓を勤めておる者で、親子共に小姓を勤めていた者もおりました。しかし、小姓そのほかの子は一旦御小納戸になって、それから御小姓になるのでして、すぐに御小姓にはなれぬようでありました。

(御小姓を勤めるのに年限がありましたか?)

(答)年限はございません。

(老年の人にて御小姓を勤めていた人がおりましたか?)

(答)一生涯御小姓にて終る人もおりました。

(諸藩ではたいてい年を取っても三十位まででありましたが、幕府では、小姓に上がる年齢は何歳くらいでありましたか?)

(答)十七歳からでありました。

(それで老年になると、奥之番とかになるのでありますか?)

(答)奥之番は御小納戸から出るのが多いので、御小姓から出るのもありましたが、まず奥之番とか御膳番とかいうのは御小納戸の分で、御小納戸の役の中でも頭立った役でございました。もっとも御小納戸の分でも御小姓から転役の出来んこともありませんが、少ない方でありました。御小納戸の方でも、両番とか部屋住みとかの者が出たのであります。表役からは頭取以下の者が出たのであります。表からは入った者はありません。

(御伽衆にはいかなる者がなりましたか?)

(答)御伽衆とは、つまりお遊戯のお相手で、たいがいは同年くらいの者で、十歳か十一歳の御幼稚の時のお相手であります。それが十六七にも御成長されると、もはや御伽衆もいりませんから、そのまま御小姓になるのが多いようでありました。宇都宮の戸田(七万石宇都宮城主)などは御伽でありましたが、後に宇都宮の本家を相続いたしました。以前より、のちに御小姓となるべき者に御伽衆を命ぜられたものと見えます。

(御学問のお相手などは、御小姓から出ましたか?)

(答)左様、小姓でございました。

(それは各別に命ぜられておりましたか?)

(答)別にきまってもおらんようで、やはり出ております者がお相手をいたしました。

(文武とも左様でありましたか?)

(答)武の方は柳生流とか何とかいうのでございました。文の方はいずれも御一緒にて、奥儒者などが出まして、講義、論講とか、解読の折などに、小姓共も本をひらいて、拝聴いたしておりました。

(小姓頭取とは、小姓の支配人の如き者でありましたか?)

(答)頭取と申して、支配人というのではありませんが、まず肝煎という位の者で、ふるく勤めておりますから、わからんことはそれに聞くというようなことでありました。

(番頭とはいかなる者でありましたか?)

(答)番頭は、書院番頭、小姓組番頭と申し、これは御表の方であります。奥の小姓頭取の中には小姓組番頭格というものがありました。小姓頭取のうちの者にて、ふるく勤労がありますと、それに小姓組番頭格という名を附して、それだけの位置にて勤めていたのであります。あるいは勤労によっては、御用取次となった人もあったようでありました。

(中奥小姓とはいかなものでありますか?)

(答)中奥小姓は表になるのであります。

(それはいかなるわけでありますか?中奥に居ながら、表になるとはわかりません。中奥小姓と申すと中奥にいるように思われますが?)

(答)左様ではありません。中奥小姓というのは用のない、実に隠居役のような者でありました。将軍家の御用をすることが、殆ど無い位でありました。御参詣の折などにはお供をいたしますが、まず有っても無くてもよろしいようなものでありました。

(諸藩にても表小姓は至極閑散なもので、一向つまらん役でありましたが、毎日出勤しておりましたか?)

(答)毎日出勤することはしましたが、御役人の仲間ではありません。ちょうど小普請入りのようなもので、小普請入りと申しますと当時の非職官でありますが、中奥小姓は出勤して、役人のような風をしておりますが、権力も何もないのであります。早く申すと、毎日弁当を喰いに出ているようなものであります。

(役高はありませんか?)

(答)役高はありません。もっとも、持高のある者が出たのであります。

(補訂)もっとも番頭等になるべき階梯なり。御儀式御給仕の節、番頭の手伝いあり。また御簾の上げ下げは中奥小姓の役なり。

(奥小姓の方に、役高のほかに何か賜わり物でもありましたか?)

(答)足高、役高はございました。

(お支度料などはいかがでありましたか?)

(答)そういうものはありません。

(諸藩では御小姓に支度金というものが下がりましたが、衣服等には余程かかりましたか?)

(答)着物はたくさんいりました。小姓役は衣類が余計になければいけません。

(衣類は禄高によって制限がありましたか?)

(答)それはありません。通常、縞の洒落たのはいけませんが、縮緬とか八丈とかいうような着物で、羽織などは遠御成の節など、自分の紋付なれば着るのであります。

(御小姓頭取と御小姓の差別はいかがでしたか?)

(答)頭取は、他の職の組頭などと異なり、ただただ小姓役の上位におるまでであります。

(小姓役は頭取に対して、歳首、暑寒等の音物(いんもつ)を贈られましたか?)

(答)頭取は前にも述べた如く、小姓役の肝煎に過ぎませぬから、決して贈品などはありませんでした。

(京都より女房奉書到来の時などはいかがでありましたか?)

(答)将軍家におかれましては、奉書拝読の前晩より、御清(おきよ)と唱えて潔斎し、小姓その他も、穢れある者は前日より退下し、穢れなき者も潔斎して出仕します。その御清とは、まず沐浴をなし、衣類を着替え、魚肉の類を食せず、女性をも退けます。また煮焼きに用いる鍋釜より膳椀、茶碗に至るまで、悉く別の器具を用うなど、尋常俗間の精進とは大いに異なる所があります。

小姓の役得?

(歳暮に納戸払いというような物も頂戴いたしましたか?)

(答)暮れに一度、小姓共も頂戴いたしました。将軍家のお召になった物ばかりではありません。もっとも、分配を受ける人数も多いので、御小姓、御小納戸、奥医、儒者等、奥に所属の者だけが頂戴いたしたのであります。

(その品物の数に制限がありましたか?)

(答)その年によって多少の差異はありましたが、たいてい七品一組くらいになっておりまして、たとえば和紙一束も一品なら、火事羽織、素襖も一品、或いは蚊帳などの入っていることもありました。その後価値がきまったようであります。すなわち概略を評価いたしまして、八丈の着物がいくらとか、蚊帳が何両とか、是と是を合わせていくらになるとか、一定の価値を取りまして、平均して不公平のないようにいたしたのでありましょう。しかし値段は世間の相場を取ったわけではありません。その品物を預かっている者の概算であります。

(その貰い方は、福引にでもいたしますか?)

(答)左様であります。さもなき時は、懇意な者には好き物をくれるというようなことが出来ますから、くじにいたしたのであります。故に頭取でも悪い方を採り、小姓の方が存外好い物を取ることもありました。くじは御召等を預かっておる者が出しました。

将軍の日常

(将軍家のお髪(ぐし)は毎日お上げになりましたか?)

(答)それは毎日であります。

(そのお髪を上げる者は誰でありましたか?)

(答)小姓の中にもあり、小納戸の中にもありました。その中に上手な者もおりました。

(御入浴は毎日でありましたか?)

(答)毎日ではなかったようであります。しかし御意になれば、いつでもよろしいのでありました。

(お湯殿はどこにありましたか?)

(答)お湯殿は中奥であります。すべて御一身のことは中奥で調ったのであります。大奥は御台様の、中奥は将軍家のお住居で、御飯の如きも、将軍家が大奥で召上るのは変則で、中奥で召上るのが通常であります。

(補訂)大奥で召上る場合も、中奥から調達するなり。

(御学問の御講釈などは中奥でありましたか?)

(答)左様、中奥の御休憩所でお聴きになりましたが、それもきまってはおりません。

(その節は、御小姓、御小納戸、みな拝聴することが出来ましたか?)

(答)左様ではありません。小姓だけであったので、それも其の日に出ている者だけであります。

(年々御城碁(おしろご)というのがあって、碁打ちが出たようでありますが、それはどこで行なわれましたか?)

(答)それは御座の間でありましたか、その次の間でありましたか、花籠のあった所と思います。たしか奥の書院より先ではなかったとおぼえております。

(補訂)御黒書院下段なり。将軍家は上段に着座、打上げを見るのみ。而してお好み打掛けは、寺社奉行宅にて打継ぐなり。

(それは十二月であって、年に一遍ずつ御城碁というものがあって、それで碁所、将棋所というものが、建っていたのだそうでありますが。)

(答)左様、なかなか仰山なことで、御暇下さるなんということもありました。たしか秀甫でございます。しかし秀甫は本因坊にはなりませんでした。常悦というのが勤めたと思いましたが、唯今はいかがなりましたか。

(補訂)本因坊は秀和より秀策に至りしが、ほかに井上、安井、林の都合四家なり。将棋は大橋宗桂、そのほかなりし。

(それは誰が推薦するのでありますか?)

(答)寺社奉行でありました。寺社奉行が連れて罷り出ました。御儀式のようなものでありました。将軍様の御上覧物で、あれほど接近して御覧になるものは無いそうであります。遠くでは見えませんからな。

(お暇の時は、雑談をなさることがありますか?)

(答)左様、折り節ございましたが、膝に手をついてきまったお話をするようなことでなく、只今こうしてお話しするようなことでありました。

(そのお話の主なることは、いかなることでありましたか?)

(答)何ということはありませんが、まず下様(しもざま)のことなどにてお尋ねがありますと、お答えをいたしますので、時によると、御返答に差支えるようなお尋ねもありました。われわれよりも、よく俗事のことを御承知のこともありました。

(御殿中の諸役人の噂などはありませんか?)

(答)それは自然とおのおのの親類とか何とかに関係が及びますから、そういうことに及ぼさぬよう、触れぬようにといたしますから、そういうお話は出ません。もっとも、三百六十日ゆえ、そう真面目なことばかりは申してもおられません。たまに頤(おとがい)を解くようなこともありました。或いは御庭園を遊歩あそばしたり、時の果実などお採りになりますとか、吹上の御苑は広いのでありますから、いろいろのことがありました。

(御書物は、ふつう必読すべきもののほか、いろいろ雑書、小説本の如きも、御覧になりましたか?)

(答)左様、たくさんありました。

(それは役人のうち、どなたが御選択して進覧いたしましたか?)

(答)それは旧来御貯蔵のものがたくさんあります。たいがい備わっているようでありました。また一の書籍を御覧になると、末尾に種々の本の表題が書いてありますから、それを御覧になって、こういう書籍を求めよと御意になる。そうしたこともあって、それからそれと御蒐集になったのでありましょう。

(菊池三渓氏も御儒者であって、彼は紀州からお供して来た人でありましたが、彼はいかがでありましたか?)

(答)だいぶ面白い人でありました。菊池、成島ともなかなか御講釈は上手でありました。ずいぶん笑いましたこともございました。安田は頑固な人でありました。

(この書籍は御覧に入れてはいかんと言って、途中で差押えるようなことはありませんか?)

(答)しごく猥褻のものであればいかがでありましたか。大概お差止め申すようなことはないように思います。

(御役外なれども、奥向き姫君方の教育はいかなる模様でありましたか?お聞き及びもありましたら、承りたく存じます。)

(答)それは大奥の方のことにて、事実がわかりかねます。とにかくわたくしどもの勤めております時は、姫君は一人もおわさなかったのでありますから。姫君のありましたのは文恭院(十一代将軍家斉)様までであります。文恭院様御一代にはたくさんお出来になりました。

(御遊船などはいかがでありましたか?)

(答)それは御船掛りの方であります。

(御浜へ御成ということがありますが、あれはまったくのお遊びでありますか?)

(答)左様でございます。

(その時は女中方がお供をすることがありますか?)

(答)以前はあったことと見えます。近頃は無いように思われます。奥仕舞(奥締りともいう)ということがあります。奥女中残らずお供をするのであります。

(その時に御小姓のお供はありませんか?)

(答)お供をいたしましたが、向こうへ参りましても、これからは大奥とかいうので、その区域があったのであります。

(将軍様は、御小姓の手を離れた方がよろしいのでありますか?)

(答)左様ではありません。大奥には御年寄とか何とかむつかしい人がいるので、一番お気楽なのは中奥であります。大奥の方が規律が厳でありますから、中奥の方が楽であります。

(先程不寝番をするというお話でしたが、交代でありますか?)

(答)左様、二時間交代でありました。御小納戸の方は二人ずつでありました。口の方は御坊主と申すのが大勢にて、口々に不寝番をしておりました。

(禁厭方(まじないかた)の如きはいかがでありましたか?宮様の御不例の折りなどは、禁厭をすることがおびただしく、医者などに困っていたということでありますが。)

(答)そういうことは、大奥でいたしたことでありましょう。

(中奥にては何か遊戯はありませんか?)

(答)別にお遊びはありません。元日から大晦日まで同様であります。殊に元日の如きは諸大名が登城するなど、なかなか繁劇なもので、遊ぶ暇などはありません。

(お昼寝はありませんか?)

(答)わたくしどもの勤めておりますうちはありませんでしたが、お年を召したらいかがでありましたか。

(お袴は始終お着けでありましたか?)

(答)そういうことはありません。

(中奥にては袴をお穿きになっておられましたか?)

(答)御表に出られる時は、これは厳然たる格でありますから、お着けになります。大奥においでの時も、御老女とか何とかいうのが故実を云々いたしますから、反って大奥の方でお袴をお穿きになることがあります。

(御右筆を勤めたものはありませんか?)

(答)ただ右筆がいても駄目であります。お役には立ちません。奥右筆でなければいけません。只今遣っているのは佐山八十九郎、湯浅貫一であります。徳川家の家扶になっております。

(幕府の対客間に煙草盆を備えることは礼式になっておりますが、談話中喫煙いたしましたか?)

(答)幕府をはじめ諸侯藩邸の対客間には、必ず煙草盆が備えられていましたが、これはただ礼式一辺のことで、煙草箱に煙草も盛らず、煙管(きせる)も俗につぎ煙管と唱え、煙管の中間に節のあるものですから、喫煙の用には立ちません。但し諸侯中薩摩藩に限り、煙草箱に煙草を盛り、煙管も喫煙の用をなすものを備えていました。これは薩藩の古例でして、名高い国産品のあったためでしょう。

(幕府の奥女中は喫煙を禁じられていたそうですが、まことでありますか?)

(答)大奥の詰所において禁煙であったことは勿論でした。されども休息所においては喫煙する者もまま有りました。しかしそれは甚だ稀なことで、概して喫煙はしなかったと言ってもよろしかろうと存じます。