PR

平維茂の逆襲~摂関政治全盛期における地方での戦い

 摂関政治全盛期である平安中期、陸奥国南部(現在の福島県)で起こったとされる平維茂(これもち)の戦いについて紹介します。

 平維茂は、平将門を討ったことで有名な平貞盛の甥の子に当たりましたが、貞盛の養子となって勢力を広げていました。

 同じく平将門を討ったことで有名な藤原秀郷の孫の藤原諸任という武将がいましたが、維茂と諸任は田畑の境界を巡って争っていたのです。

 それぞれ国の有力武将であったため、国司も裁断に困っているうちに国司が病死してしまいます。

 そこで一気に争いが表面化し、2人は軍兵を集めて合戦の準備に取り掛かったのです。

 当時の慣習に従い、合戦の期日と場所が決められた上で双方の軍勢が集いますが、集まったのは維茂方三千に対し、諸任側は千人と圧倒的な差でした。

 諸任は勝負にならないと、合戦を中止する旨申し送り、常陸国へ出ていくことになったのです。

 決着は付いたため、維茂方に集まった諸将も解散しそれぞれの領地に帰っていったのですが、それからしばらくしたある日の夜半、維茂の館の前にある大きな池から、水鳥が飛び立つ羽音がします。

 直感的に夜襲であると悟った維茂は、館に残る数少ない郎党を集めて応戦の指示を出します。

 斥候に出した一騎が戻り、
「詳しくは分かりませんが、4,5町ばかり先におびただしい数の敵兵が展開しています。」
と報告がなされると、
「こう不意を突かれてはもはやこれまでだろう。ただ一矢報いてやろう」

と、寄せ手の来るであろう道に4,5騎ずつ楯を並ばせて待ち構えるよう指示を出しますが、館に残った兵は20人ばかりに過ぎません。

 女子供を裏山から落ち延びさせた頃に戦いが始まりますが、敵は館の外の味方をことごとく蹴散らして、幾重にも館を取り囲みます。

 多勢に無勢の中、味方は次々と討たれていき、やがて館にも火がかけられます。暗闇の中で奮戦していた者も、館の炎と夜明けで敵に丸見えとなり次々と射殺され、或いは焼死していったのです。

 火勢が衰えた後に館を占拠した諸任勢は、80余りの死体を発見しますが、ほとんどが黒焦げになっており、どれが維茂の遺体かは判別がつきませんでした。

 しかし逃げおおせたはずはないだろうと勝鬨の声を上げ、戦死した味方2,30人の遺体を馬に乗せて引き上げたのです。

 諸任は、途中休憩させてもらおうと、妻の兄である大君という者の館に立ち寄ります。

 大君から、
「見事な戦いぶりじゃ。して、維茂の首は確かに取ったのか」
と尋ねられたため、諸任は、
「館を取り囲んだ上で敵を討ったが、途中戦う維茂の姿ははっきりと見た。どれが維茂の首か分からなかったので持ち帰らなかったが、皆殺しにしているので生きているわけはない」
と答えます。

 すると大君は、
「首を取るまでは安心できまい。長居は無用、わしも巻き添えは御免であるのでそなたは早々に立ち去るがよい。酒食は後から届けさせる」
と諸任を追い立てたので、やむなく諸任も出立します。

 大君の館から5,60町ほど進んだところで丘の傍らに小川が流れている場所を見つけたので、諸任はそこを休憩場所とし、甲冑を外して全軍に休憩を命じたのです。

 時間は午前10時頃になっていましたが、やがて大君から大量の酒食が届けられ、皆昨夜から徹夜で戦い続けていたので疲労困憊しており、酒食を煽ると皆甲冑を外し馬の轡も解いて人馬ともぐったりと眠りに入ってしまったのでした。

 一方の維茂はどうなったのかというと、明け方まで戦い続け、味方もほとんど討死し、矢も尽きたところで、女の着物を纏って髪を振り乱して下女を装いつつ煙に紛れて館を逃れ、館の傍らを流れる川の沖に出ると川に潜って葦が一面覆っている場所まで泳ぎ、そこで息をころして様子をうかがっていたのです。

 やがて諸任の軍が引き上げていったのですが、しばらくすると近辺に住む郎党たちが異変に気付いて次々と駆け付けてきます。

 郎党たちは黒焦げになった館で泣き崩れていましたが、そこへ維茂が現れたたため、大喜びで付近から武具や食料を集め体制を整えたのです。

 維茂は、
「昨夜襲われた際に山へ逃れる方法もあったが、戦わずして逃げ去るのは末代までの恥辱と思い一戦に及んだところ、この有様じゃ。どうしたものぞ」
と話すと、郎党たちは、
「敵は4,500という多勢、こちらはわずか5,60人、後日軍兵を集めて雌雄を決すべきかと」
と口々に答えたといいます。

 しかし維茂は、
「元々昨晩失っていたはずの命。復讐が一日延びれば恥辱もまた一日延びる。お前たちは命が惜しいならば後日軍兵を集めて戦え。わしは一騎でも諸任の館へ向かい、一矢射かけて死なんと思うなり。」
と駆け出そうとしたため、郎党たちも、後日戦うべしとの言を撤回し維茂に従うこととします。

 維茂は、
「敵は夜通しの戦いで疲れ果て、途中で弓矢甲冑も解いて死んだように休んでいることだろう。鬨の声とともに押し寄せるならば、千の兵であっても何たるものぞ。今が好機じゃ」
と出立したのです。

 更に加わる郎党もあり、騎兵70,歩兵30余りとなった一党は、敵の痕跡を探して後を追っていきます。

 途中大君の館を通りかかった維茂は、人を遣って、
「平維茂、今夜討たれて逃げ延びる」
と声をかけさせます。大君は、このようなこともあるだろうと門を固く閉ざし鳴りを静めさせており、維茂の使者は口上を伝えたのみで立ち去り、先を急いだのです。

 維茂の斥候が丘のふもとで休憩している諸任勢を発見すると、維茂は丘に兵を上げ、軍馬もろとも斜面を駆け下り、鬨の声とともに一気に諸任勢に攻めかかったのでした。

 不意を突かれた諸任勢は狼狽し、慌てて甲冑や馬の轡を付けようとしますが、大混乱の上逃亡する者も続出します。

 一気に3,40人ばかりが討たれ、維茂勢は乱戦の中諸任も射殺して首を取り、戦いはあっというまに決着が付いたのでした。

 勢いに任せて、維茂は諸任の館に押し寄せます。館では戦勝の主人が帰ったと酒食を用意して待っていたのですが、維茂勢は一気に館に乱入し、
「女には手を出すな。男という男は見つけ次第殺せ」
との命のもと、火をかけて手向かう者は射殺していきます。

 館の者はことごとく討ち果たされ、館は灰塵と化し、諸任の妻も捕えたころには夕方になっていました。

 維茂は途中で諸任の妻を兄である大君の館へ送り届けると引き上げていったのです。

 この戦いにより維茂の武名は坂東中に広まったといわれています。

 この話は長保元年(999)頃にあった戦いと考えられ、中央では藤原道長が権力を握った摂関政治全盛期です。

 形成されていっていた武士団の様子と、名誉を重んじつつ、勝つためには手段を選ばない当時の武士の猛々しさを感じさせる逸話ではないでしょうか。