PR

田沼意次の生涯~その晩年と子孫はどうなった?

 田沼意次は、江戸時代の中期に10代将軍・家治の側用人から老中になって幕政改革を主導した人物として知られています。今回の記事では、意次が失脚して老中を退いたあと、どのような晩年を送ったのか、また子孫はどうなったのか紹介します。

田沼意次の先祖

 田沼家は、鎌倉時代に下野国安蘇郡田沼村(栃木県佐野市田沼町)を領した、佐野重綱が田沼を称したことからはじまるとされています。

 新田氏、鎌倉公方足利氏、上杉氏、武田氏に仕えたのち、江戸時代の当主吉次が紀州藩主・徳川頼宣に仕えたといわれています。

 そして、吉次の曾孫・意行は部屋住み時代の徳川吉宗に登用され、吉宗が8代将軍に就任すると幕臣に召し出され、知行600石の小身旗本となっています。

田沼意次の出世

 意次は、享保4年(1719)、意行の長男として江戸で生まれました。意行が吉宗の側近だったため、吉宗が8代将軍となると、その縁で意次は9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735)に父の遺跡600石を継ぎました。

 意次は、家重に重く用いられ、御側御用取次となり、1万石の大名に取り立てられます。

 家重が亡くなったのちも、その子10代将軍・家治から信任され、出世を重ねて最終的に遠江相良藩主5万7000石の大名にまで昇進し、側用人と老中を兼任して、幕政を主導したのです。

 また意次は権力を維持するため、大奥にも人脈を作り、大奥を味方につけていたとされています。ちなみに、意次は美男であり気配りにも優れていたといわれています。

 さらに、意次は低い身分の出身であったことをカバーするために、子女を幕府の重職者に嫁がせてつながりを持たせました。

 意次の長男・意知の正室は、老中・松平康福の娘で、四女は大老・井伊家の分家である越後与板藩主井伊直朗に嫁いでいます。

 その他の老中や寺社奉行にも娘を嫁がせ、勘定奉行、江戸の両町奉行なども田沼家家臣の娘と婚姻を結んでおり、田沼政権は田沼家の親類縁者で固められていました。

 意次が権勢を握った約20年間は通称「田沼時代」と呼ばれています。意次が権勢を握り始めた時期に関しては諸説あります。

田沼意次の失脚

 数々の幕政改革を手がけ、政治権力を持っていた意次でしたが、幕府内の保守派からは反感を買っていました。低い身分の出身だったので、妬まれていたこともあったでしょう。

 また商人を優遇して賄賂が横行したため、庶民の不満も高まっていました。そのころ「天明の大飢饉」が発生したことも災いします。

 そして、天明4年(1784)、若年寄を勤めていた長男・田沼意知が江戸城内で旗本・佐野政言に暗殺されるという事件が起きます。このことが契機となって意次の権勢が衰え始めます。

 さらに天明6年(1786)8月25日、意次の後ろ盾だった将軍家治が死去しました。

 意次は重病だった家治のために蘭方医を推薦していましたが、その直後に家治の病状が悪化したことで、反田沼派から「田沼が推薦した医者が毒を盛った」などと噂を広められることになったのです。

 家治が亡くなって一番打撃を受けるのは意次なのですが、、、

 家治の死の直後、意次は一橋治斉と松平定信を中心とする反田沼派により老中を解任させられ、2万石を没収され、江戸上屋敷の明け渡しも命じられました。

 その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封で3万7000石を没収されて、意次が建てた相良城は打ち壊されます。

 この打ち壊しは意次の三女の嫁ぎ先である遠江横須賀藩主西尾忠移に命じられています。

 長男の意知はすでに暗殺され、他の男子は全て養子に出されていたため、孫の龍助意明(意知の子)に陸奥下村1万石を改めて与えられ、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許されました。

 元々新規召し抱えばかりであった田沼家臣団の多くは、退職金代わりの金子をもらうと離散していったといいます。

 また、田沼家の子女と縁組していた各家の多くは縁組を解消したそうです。

田沼意次の晩年

 それから2年後の天明8年(1788)6月24日、意次は江戸で失意のうちに死去しました(享年70歳)。墓は東京都豊島区の勝林寺にあります。

 なお、意明に与えられた1万石の地の実高は半分にも満たなかったそうで、意次の死から間もない天明8年9月には、幕府から意明に対し莫大な費用のかかる河川工事が命じられ、田沼家の蓄財は無くなってしまったといいます。

 また、意明はしばらく将軍への拝謁も許されず、初めて拝謁したのは寛政3年(1791)10月、叙爵し淡路守に任じられたのも同年12月になってからでした。

田沼意次の子孫

 陸奥下村1万石の藩主として家督を相続した孫の2代意明から4代までは意次の孫が相続し、5代は意次の弟の孫・意定が相続しましたが、いずれも若くして亡くなっています。

 6代意正は意次の子で、はじめは駿河沼津藩主水野忠友の養子になりましたが、父意次の失脚により、田沼家に戻され、母方の姓田代氏を名乗りました。

 本家の意定が嗣子なくして没すると、40歳を過ぎた意正が本家の家督を相続しました。

 その後、大番頭、若年寄に任ぜられたあとに田沼家旧領の遠江相良藩に復帰となり、相良城二の丸跡に居館を築きました。

 なぜ冷遇されていた田沼家が意正の代になって相良藩に復帰できたり、要職に任じられたかというと、、、当時11代将軍・家斉の側近として権勢があった水野忠成(ただあきら)による引き立てがあったためといわれています。

 忠成は意正が水野家を離縁されたあとに、新たに水野家に婿に迎えられており、同じ水野家の養子同士という関係があったのです。

 7代意留は意正の長男で相良藩主を継ぎました。

 8代意尊は意留の子で天保11年(1840)に家督を相続しました。文久元年(1861)、若年寄となり、元治元年(1864)、水戸天狗党の乱を鎮圧するために幕府軍を指揮しました。

 意尊は捕らえられた天狗党を猛烈な悪臭を放つ魚のニシン蔵に収容し、足枷をつけて、352名を斬首するという過酷な処分を下したのです。

 これにより幕府への反感が高まったといわれています。

さいみ党の復讐~天狗党と諸生党の闘争
幕末の水戸藩では天狗党(尊王攘夷派)と諸生党(保守派)に分かれ、血を血で洗う凄惨な争いが繰り広げられましたが・・・・

 明治維新後に徳川宗家が駿河・遠江を領有することになったため、上総小久保に移り、版籍奉還を迎えます。意尊は明治2年(1869)12月に亡くなっています。

 9代意斉は武蔵岩槻藩主大岡家から養子入りし、田沼家を相続します。

 この大岡家は9代将軍・家重の側用人として幕政に影響力を持った大岡忠光の系統で、南町奉行として有名な大岡忠相とは遠縁にあたります。

 また意斉の実父は伊勢八田藩主加納家から養子入りして大岡家を継いでいます。加納家は8代将軍・吉宗の側近だった加納久通の子孫です。

 それぞれ8代・9代・10代将軍の側近だった子孫が100年以上経っても親しくしていたことがわかります。

 意斉は小久保藩知事に就任して翌年に廃藩置県を迎えました。

江戸・大名の生活~田沼屋敷の女相撲
幕閣で権勢を振るった田沼意知は有能な政治家でしたが、新たに与えられた屋敷で女相撲を始めたのでした・・
郡上一揆~大名金森家の改易と幕閣大量処分!!
郡上一揆は江戸中期に美濃国の郡上八幡で起こった百姓一揆ですが、百姓側の犠牲だけでなく、藩主金森家の改易、幕閣の大量処分など大きな爪痕を残した一揆です。
江戸の女武者~大名屋敷の女別式
江戸中期、大名屋敷の奥向(私邸空間)には「女別式」と呼ばれる女武者がいました。

松平定信の生涯~その晩年と子孫はどうなった?
松平定信は、江戸時代後期に、老中首座になって「寛政の改革」を主導した人物として知られています。今回の記事では、定信の生涯と失脚して老中を退いたあと、どのような晩年を送ったのか、また子孫はどうなったのか紹介します。