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千代田の刃傷~いじめの復讐

 江戸時代にはさまざまな刃傷事件がありましたが、「千代田の刃傷事件」は江戸城内で起きた事件の中でも衝撃的な出来事です。

 この事件の加害者は松平忠寛(通称は外記:ここでは外記で統一します)という蔵米300俵取りの旗本で、書院番士として幕府に仕えていました。書院番とはいわゆる将軍の親衛隊で、西の丸と本丸にそれぞれ4組(1組は番士50名・与力10騎・同心20名からなっている)が置かれていました。

 外記の家は十八松平の1つ桜井松平家の傍系に当たります。

 時は11代将軍家斉の時代で、当時旗本の風紀は乱れており、生真面目な外記は周りから浮いた存在でした。

 外記は武道に通じ、父松平忠順の後押しによって、追鳥狩で勢子の指揮を執る役に抜擢されたのですが、これが慣例を無視した人事ということで古参の番士たちから反感を買うことになります。

 そして、同僚から陰湿な「いじめ」を受けたことが原因で事件に発展することに至ります。

 文政6年(1823)4月22日、それまで屈辱に耐えていた外記は我慢の限界に達し、戸田彦之進、沼田左京、本多伊織の3名を殿中において斬殺し、間部源十郎、神尾五郎三郎の2名に傷を負わせました。

 間部源十郎は翌々日傷がもとで死亡しています。外記は刃傷後、自害して果てました。

関係者の処分

【加害者】
松平外記 自害、父忠順は御役御免、子の栄太郎が家督相続【被害者】
戸田彦之進 死亡、絶家
沼田左京(旗本800石) 死亡、改易
本多伊織(旗本800石) 死亡、蔵米300俵に減
間部源十郎(旗本間部家、鯖江藩主間部家の分家) 翌々日死亡したが隠居という形をとられる。
神尾五郎三郎(旗本1500石、享保の改革で勘定奉行を勤めた神尾春央の子孫) 負傷、改易

 その他事件を隠蔽しようとした上司の酒井山城守はじめ関係者7名が御役御免などの処分を受けています。

 加害者である外記の家はというと、父の忠順は御役御免となりましたが、家督は子の栄太郎が無事相続しています。

 このことから、幕府内でも外記が事件を起こした背景をきちんと吟味し、かなり同情的だったことが伺えます。

 被害者が改易なのに、加害者である外記の家が存続していることから、余程のことがあったと思います。喧嘩両成敗の江戸時代には考えられない仕置きです。事件はその後瓦版で報じられ、江戸町民の話題となりました。

 面目を重んじる武士がいじめによって追い詰められ、自ら死を覚悟した時に起こった悲劇といえます。

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