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江戸町奉行所与力の実話~明治維新後の回顧談

 明治25年に東京帝国大学の学者らが旧幕府関係者から聞き取り調査をした『旧事諮問録』から、江戸町奉行所で与力を務めていた谷村正養という人の話を紹介します。

与力の体制

(与力の人数を承りましょう)

与力は一組二十五人でございます。南北と二組になっておりますから。

(そうすると、すべて五十人になるのですな)

左様でございます。

(与力は一体、株がきまっておったのですか?与力の家というものがきまっておりましたか?)

左様です。与力の家がその通りにきまっておりましたので、その中に内与力と申すのが四人ございます。町奉行の用人の中の上に立った者で、その四人を内与力と称えました。これも与力の勘定に入れてございます。

(そうしますと実際世襲の与力は二十一人ですか?)

いえ、二十三人です。

(今の四人を加えると一組二十七人になりますか?)

総体五十人の中に只今の四人が入っているのです。

(南北に両人ずつというのですか?)

左様です。それがみな給地を取っておりましたので、私共も上総下総の給地でございました。表向き二百石ずつ四人分取りますが、その内訳は、南北にて用人は六人で六百石取れば、目安方は四人にて二百石になるという勘定でございます。しかし表向き名義の出ておりますのは、四人だけです。

(与力の取り高はどのくらいでしたか?)

二百石でした。

(表高二百石でしたか?)

中には左様でない者もおりました。

(それはどういうわけでしたか?)

それは新規に召出されて、与力に仰せ付けられた者に、百五十石渡すとか何とかいうことがあるのでございます。

(そうすると与力は世襲ではないのですか?譜代というのではありませぬか?)

外員でございますから、代々与力でございましても、家督を御城へ出て受けるという方ではないのですから。

(自然、親子で勤めているというようなことがあるのでしょう?)

左様です。最初は見習いに出るので、見習いを申付けられるのです。そのうちに本勤並みに勤めるようにという言渡しがございます。すると一カ年金二十両の手当てで本勤並みに勤めますのです。

(並でも二十五人の内ですか?)

その外に出ます。それも七人ときまっておりました。二十五人のほかに七人ときまっていて、七人とも部屋住みの者です。

(部屋住みのうちは、いくらほど貰うのですか?)

天保九年以前は、見習勤めの者は一カ年白銀七枚(金五両余)の手当てがございました。(与力役格は、支配、支配並、本勤、本勤並、見習、無足見習の六等とす)

(そうすると与力の家で、もし跡を継いで見習に出る者がないと、二百石は没収ですか?)

必ず養子をいたしますから。

(その養子が与力にでられませぬと?)

必ず出られます。

(そうすると与力は、悧巧の者でなくとも出来るというわけですか?)

悧巧でなくとも使い道が、相応な役がありますから、なれますとも。

(家の株できまっているようなものでしょう。)

御先手与力へ組替えなどされることがございます。悪いことをすると、御先手与力というのにされるのです。たいがい親子共に出るのが多いのです。親の勤めておりますと、その親が出精に勤めるというので、倅を新規召出しで与力にするというようなことです。

与力の役割

(与力は随分むつかしいものですか?御番士のような事は出来ますな。新御番とか大御番とか。)

そういうものが与力の方にもあるのです。御番方をしている役掛りもあります。役を勤めましても、火事場の掛りとか、撰要方は旧記高調べ、例繰(れいぐり)方は御仕置の先例調べ、火の元取締のため風烈の節、ならびに平常市中昼夜相廻り候役を、御番方をいたしながら勤めますのです。

(役の立つ者が五十人のうちで、何人くらい無ければならぬことになっておりましたか?才気のある者が?)

何でも見習を入れまして、左様、二十五人位になりましょう。番方や何かをいたすのが三十人位でした。御勝手の方もありますが、三十人位が働きのない方でしたろう。

(力のない者が番方をやるのですか?)

左様です。最初のうちは役を持てませぬから。

(番方というのは三十人位ですか?)

左様です。

(若い者ですか?)

左様です。元来、組の者でありませぬと、どんな才気のある人でも様子が分かりませぬから、年を取っている者でも、他から入って来ては、容易に役掛りにはなれませぬというようなわけです。

(そうすると、若い者が番方を勤めて、それからだんだん功労を経て、枢要な所へ行くというようになりますか?)

左様です。才気がなくとも勤まる役がほかに随分ございますから、番方でなくとも。たとい才気がありましても、昔のことでありますから、滅多なことをやりますとすぐ叱られます。何でも先例、先格ですから。

(その人の器量によって、中の配列がきまって行くというわけですか?)

左様です。

(働きのある者を吟味役にするとか?)

左様です。衆多の中ですから、よい具合にその人を得ることもありますが、中には頻りにお辞儀をしてなる者もありましょうから、一様には申されませぬが。

(何某をこの掛りにするとか、誰某をこの役にするとか、配列をするのは誰ですか?)

全体、奉行がするのですが、与力の中に年番方と申す年寄がおりますから、それが大概いたします。同心の役掛りの方は、いっさい奉行に聴きますだけで、かねて帳面が出来ておりまして、それを出して、是をこうして彼をどうしてと申上げ、伺済で申渡すということになります。それに与力の中で筆頭の五人が同心支配役で、同心を五組に分けてありますのを、一組ずつ預かっているのです。南北共に一番組から五番組まで、同心を分けて預かっておりますので、御抱入の事でも何でも、同心の方の事はその支配役がいたします。同心の方は奉行がじきに申渡すようなことはありませぬ。

(同心の一組は何人ですか?)

二十二、三人位です。およそ二十余人です。つまり支配与力と申すのが、南北で十人おりますから、十組あるわけです。

(与力二十五人の中で、吟味方と召捕方とか証文方とかいうのは、何人ずつでしたか?)

年番方と申すのが、役所の取締りから会計筋の事まで、残らずやりました。その年番方が二人、近時になりまして三人になりましたが、古くは二人です。それが南北で四人、それに同心が六、七人ずつ附属しておりました。

(年番方というのは、年々交替ですか?)

昔はそうだったのですが、その時分は組頭と称えたそうです。その組頭の四人ですべて取扱って、その中で今年は誰の年番だというわけで、交替で勤めましたのです。其の役名が遺っているのです。

(年番というのは与力の頭ですか?)

左様です。十人の中で四人、年番に上がるのです。

(吟味方、召捕方、証文方は?)

吟味方は四人のことも、八人のこともございました。吟味方の下に種々な名の附いた者があります。吟味方手伝というような。

(吟味方の中でそういう名が附くのですか?)

やはり吟味役の中です。仕事について分かれるのですが、吟味方と申すのは大概、五人位です。南北で十人位ですが、その時にもよります。

(その証文方というのは、どういう役ですか?)

証文方というのは全くございませぬよ。何の役ですか。

(掛りはどのくらいに分かれておりましたか?)

本所方というのがございます。古く本所深川に奉行がございましたのが廃止になりまして、その跡を引き受けているのです。その与力が二人おりました。牢屋敷、つまり囚獄の掛りが南北で両人。それから小石川の養生所と申すのがございます。病人を扱います所で、それが二人。橋梁の掛りが二人。それから猿屋町に会所というのがございましたな。札差の方です。それにも二人。末になりましては函館産物会所というようなものも出来るし、それらの掛りもありました。町会所というのがありましたが、楽翁公(松平定信)の時に町会所へ申付けて、町入用を減らせということで、それからこれだけ減りましたと言うと、その内の七分積めというので、積金がよほど出来ましたな。地面を抵当にして貸したのです。それを取扱います町会所、これには南北二人ずつの四人出ておりました。それに御勘定方が出役しておりました。それから赦(しゃ)の掛りがございます。赦帳方、撰要方と言いました。

年番方 与力二人、同心六人
吟味方 与力八人、同心十六人
市中取締掛り 与力六人、同心十二人
赦帳方撰要方 与力三人、同心六人
例繰方 与力二人 同心六人
用部屋手附 同心十人
当番方 与力人数不定、年寄同心十五人、物書同心十五人、若同心人数不定
本所深川見廻り 与力一人、同心三人
養生所見廻り 与力一人、同心三人
牢屋見廻り 与力一人、同心三人
定橋掛り 与力一人、同心二人
町会所掛り 与力二人、同心三人
猿屋町会所見廻り 与力一人、同心二人
古銅吹所見廻り 与力一人、同心一人
高積改め 与力一人、同心二人
函館会所取締掛り 与力一人、同心二人
硝石会所掛り 与力一人、同心二人
町火消人足改め 与力三人、同心六人
隠密廻り 同心二人
定廻り 同心四人
臨時廻り 同心六人
人足寄場掛り 同心二人

以上の配置人員は南北各一組の人数にて、両町奉行所を合すれば此の二倍なり。なお此のほか時代によって特設される諸掛りあり。すなわち、

風烈廻り、昼夜廻り、諸式調掛り、御肴青物御鷹餌鳥掛り、諸問屋組合再興掛り、非常取締掛り、外国掛り、開港掛り、御国益御仕法掛り、諸色潤沢掛り、諸式値下掛り、外国人居留地掛り、町兵掛り、下馬廻り、門前廻り、御出座御帳掛り、定触役、引纏役、定中役、両御組姓名掛り等なり

(赦の方は、そういう掛りを置かなければならぬ程のものでしたか?)

左様です。

(赦というのは満期放免ということでしょう?)

その赦に二様ございまして、牢屋敷なら牢屋敷に入牢している囚人を、何殿の御法事について赦すという方は、町奉行と御目付が芝の増上寺とか上野の寛永寺に出役をして、縄付の囚人を赦免するので、これは吟味方の掛りで現在の赦と申しまして平生度々ございます。過去の赦と申すのは、将軍宣下とか何か御大礼のある時に、前々刑罰に処せられた者を、これは御赦になり難いとか、これは御赦になってもよいとか、その罪人の名を書き出しますので、平生に調べておきませぬといけませぬ。前々から書き続けてありますから、その中で赦になるのとならぬのとを調べるのです。

(それは囚獄方とは別ですか?)

左様です。法事や何かで、囚人を引出して御赦になるのと、罪に処せられた者の方の赦とは、赦には違いございませぬが違うのです。

(赦になる者とならぬ者との罪の軽重は、どのくらいのところまででしたか?)

死罪、流罪になるべき者だが赦すという申渡しでしたが、死罪になるような者は、ごく稀ですな。

(その掛りの中で、何が最も重い役でしたか?)

年番が最も重いのです。

(年番という役は、何にでも手を出すのですか?)

左様です。

(年番は多く老年の人ですか?)

左様です。その次が同心支配ですが、同心支配からでなくては、年番にはなれませぬ。

(年番となりますと禄高が違いましたか?何か役得のようなものがありましたか?)

禄高はそのままです。また役得もございませぬが、ただ尾ひれが附くというだけですな。

(与力の新参でも二百石、年番でも二百石というのは、少し釣合いが悪いようですな。)

いや、与力の中には高の半端の者がございますから、必ず二百石ずつ割り渡すわけではございませぬ。五人扶持加増するにも、御老中の差図がなければ出来ませぬ。

与力は裕福?

(与力は二百石でも割合いに裕福であったと聞いておりますが、二百石の旗本などはひどい貧乏なものでしたな。与力はなかなか裕福なものだったそうですが。)

裕福ではございませぬよ。私は南の方に生まれて北の方へ養子に参ったものですが、裕福なのが両人ほどおりましたな。五十人の中で。

(そうすると、何か情実があったのでしょう。旗本御番士などの二、三百俵は、仕様のないものでしたからな。)

私の方は忙しいから取る物も多いというわけでしょう。

(取る物というのは、どういう物ですか?どういう性質で入って来るのです?)

只今申上げた知行所のことです。

(先刻お話の両人ほど裕福であったというのは?)

やはり自分自分の倹約のためでしょう。与力の方でも、ずいぶん弁当箱を質に入れたというような者もおりますからな。総体貧乏には相違ありませぬ。

(それから扶持を戴くというのは?)

年来出精に相勤めたからというので、奉行から申上げ、御老中から差図があって、奉行が申渡します。

(それは五十人の中で幾人位おりましたか?)

御維新の際は一人でした。扶持といっても、たくさんは出る気遣いはございませぬ。

(年番の人がそれに当たるのですか?)

年番の者でも屹(きつ)とそれに当たるというわけにはいきませぬ。年功を積んでいても、必ず当たるときまっておりませぬな。私の事にしてお話いたしますが、私の養祖父が年来出精に相勤めたというので、養父を新規に町与力の明き跡へ仰せ付けられましたため、本家の方では又養子をして、それが家督をすることになり、結局二軒になりました。それで町方の方には同姓の者が大分おります。なお、鳥居甲斐守という人が建白して、内与力に扶持をやるのは不都合だというので、取止めたことがございましたが、遠山左衛門尉の時分に、また旧に復したのです。

(天保の改革の時ですか?)

左様です。

(養子という中には、金を出して株を買って入るのはありませぬか?)

それはございますかもしれませぬが。

(与力の株を買うということは出来ましたか?)

御先手のようなわけには参りませぬ。あったかもしれませぬが、表向きにはなりませぬな。

(持参金のはありましょう?)

それはございます。

(多分の持参金を持って養子に入り込むに、金高にきまりがありますか?)

それはございませぬ。第一、与力の縁組は、嫁を貰いますにも婿を取りますにも、大概は与力同士で済みますが、無ければよんどころなく他から貰いますので。よく調べてみますと、与力はたいてい縁類です。

(千両出して与力の株を買うということがありましたか?)

〈千両ということはないだろう。それは高い〉

〈いや、それくらいはしましょうよ。〉

(町与力の中で器量があって、枢要の地位に当たっている人ですと、いわゆる半分公然の役得というようなものが何かありましたろう?)

それは諸侯方から御扶持を戴いておる者もありますし、もっとも御出入りと称えまして、頂戴物があります。これは同心にもあります。

(受持ちの諸侯からですか?)

左様です。やはり御坊主のようなものですから。

(そういう大切なことがあったのですか?)

〈それは公然たるものだ〉

町与力という者は他から見ますと、大そう賂(まいない)でも取っているように思って、旧幕府の頃にもとやかく申しましたが、内へ入ってみますと、女のような気持で、あすこへ妙な奴が出入りすると、目くじら立てて騒ぎますから、なかなかそういうことは出来ませぬが、もしもございますと、御先手の方へ貶(おと)されます。悪くすると「場所不相応に付き御暇」というようなことで、二百石を棒に振ることになり、すぐに掃き出されてしまいます。

(その諸侯方を与力一人で、かの邸この邸と掛け持ちしてもよいのですか?)

それは器量次第でいくらでも。

(働きによってですか?)

左様です。

(それは扶持で戴く方が多いのですか?)

扶持で下さるところは僅かですな。大概はお金です。しかし少ないものです。

(三百余の諸侯を五十人位で受持つと、収入が大分あるわけですな?)

それが小さい諸侯ですと、一軒で一人を頼みませぬ。何軒か組んで頼みます。ですから、そんなに呉れるわけがありませぬ。

(大きい所で加州とか薩州とかいうような所で、どのくらいでしたか?)

どのくらいでしたか、品物はよく見ました。絽の反物や何かを。

いったい献銭は奉行の方へ、みんな参るものでしたからな。

(只今の扶持ですが、上総下総で一万石というのは、一万石とまとまった物を奉行に預けておくのですか?)

これは一組で一括にしてあるので、てんでに分けますと、用金や何かを勝手に言付け、知行所で難儀をいたしますからで、もっとも類焼でもいたしますると、一組残らずへ言付けまして、五カ年年賦か何かで返すようになっております。決して一人では出来ぬこととなっております。

(その一万石の領地の支配は誰がするのですか?)

給地役と申す者が、南北二人ございまして、三十俵二人扶持ずつ宛がって、組屋敷の割り余りの土地に役所を建てまして、玄関と座敷と、すべて三間くらいで、給地役は自分の地所でも耕すとか、まず半官半民です。大概のことはそこで取扱います。

(そうすると、その支配所を預かっている者は、つまり多数の人選で出るというようなものですか?それが代々ですか?)

代々です。たいがい給地出の者です。それから与力の内に給地世話番というのがございます。それが五千石の出入り事や何かを調べます。南の給地と北の給地とに関係したことでございますと、両方の給地世話番が立会いまして、吟味をいたします。

(そうすると、町与力の株の売買というのは表向きのことではないのですか?)

表向きにはそんなことはございませぬ。

(実際はあってもよいのですか?)

左様ですな。実際あったということも承りませぬが、株の売買ということは、御先手の与力にはありましたようですが。

(御先手与力は随分あったでしょう。)

左様です。御徒士とか何とかいう方は、金を出して買ったようですな。

(他の取り物は同心などの方が多かったのですか?)

左様です。同心は町屋敷を買って、町屋敷の表に町長屋を建てまして、その奥に小さく住まっておりましたが。

(自分で直接に探索をして、方々から貰い物があるというようなことは、同心の方にはございませぬか?)

相対ならいかがですか。

(岡っ引というのが探偵筋で、だいぶん金を貰うということがあったらしいですが。)

それはあるかもしれませぬが、それが分かるようにやる気遣いはありませぬ。自分の身が大切ですからな。

同 心

(同心という役は、むつかしい役でしたか?)

同心は与力の下にいて働くので、与力の下手附です。

(しかしその下手附が、実際の働きをいたさんければならなかったのではありませんか?)

左様、それは役のない者もありますが、役のある者は自分一己で働かんければなりませぬから、たとえば廻り役というのがあります。与力に附いておらぬ方であるますが、隠密廻りという者があります。二人おります。定廻りという方で、臨時廻りというのもあります。すべて廻り方と称えたので、つまり捕物や何かをいたすのです。

(今の巡査の探偵みなようなものですな。)

左様です。

(同心は幾人でしたか?)

百二十人です。

(与力五十人に百二十人ですか?)

一組です。安政度に二十人ふえました。それは同心の次三男から、仮掛りになりまして、新規に家をふやしますと、高が多くなって、家が多くなってきますから、それで次三男を仮抱仁しました。百二十人は一組ですから、総人数はその倍です。

(南北総体で二百四十人ですな。)

左様です。部屋住みの者を仮抱にしたためにふえたのです。その親が死にますと、すぐ親の後を継ぎますから、そこに穴があきます。その跡の見習に出ます者は、次三男でも構わぬのです。もちろん百軒の家の息子が、残らず見習に出るともきまりませぬ。