江戸の遊郭街「吉原」についての雑学を紹介します。
元吉原
元の吉原は、元和4年(1618)、日本橋に二町四方の広さで幕府の許可を受けて開設されました。治安対策の面があったようです。
寛永19年(1642)の記録では、遊女屋25軒、揚屋36軒、遊女987人であったとされます。
揚屋は最高級の遊女である太夫を呼んで遊ぶときに使う見世(店)です。
その後、明暦3年(1657)に起こった明暦の大火後に、千束の地に幕府の命令・支援を受けて移転します。
以下、移転後の「新吉原」を中心に紹介していきます。
遊郭の構造・出入り
南北135間(約250M)、東西180間(約333M)で出入り口は北にあった大門(おおもん)のみで、周囲は遊女の逃亡を防ぐための幅5間(約9M)の大溝(おおどぶ:通称「お歯黒どぶ」)が取り巻いていました。溝は次第に狭くなり、関東大震災を機に完全に埋め立てられたそうです。
この郭の中に、遊女と関連の人々が8千から1万人も暮らしていたといいますから、すごい過密ぶりですね。
大門を入ると左に門番所があり町奉行の与力・同心が見張りに来ていたそうです。
右には会所があり、吉原内から当番で詰めて、遊女の逃亡防止と秩序維持に当たっており、会所は通称「四郎兵衛番所」と呼ばれていました。
遊女が郭から逃げ出すには、周囲の大溝を渡るか、男装して大門を抜けるかしかありませんでした。
「優男 待てと 四郎兵衛 ひっとらえ」
「四郎兵衛が 男と思ふ 運の良さ」
などといわれたのです。
遊女屋
遊女屋には「大見世」「中見世」「小見世」などのランクがありましたが、いずれも二階建てで、通りに面した表は紅色の太い格子になっていました。
格子の内側に遊女たちが並んで客待ちするのを「張見世」といい、昼は正午から午後4時まで、夜は午後6時から遊女たちが並んでいたのです。
茶屋
江戸前期までは揚屋と茶屋の双方がありましたが、中期に揚屋は姿を消し、茶屋のみになりました。
大門の外や遊郭内には茶屋が立ち並んでいましたが、これは客が行き帰りに休息する場でした。
遊女の所へ行く前に茶屋に寄って手足を洗い身だしなみを整えます。
そばなどの軽食を取ったり、雨の日は茶屋が傘や下駄を貸したそうです。
遊郭内の茶屋は客の手を引いて遊女屋まで案内するので「引手茶屋」と呼ばれていました。
遊女の数
江戸初期の元吉原は約千人でしたが、中期の1700年代には二千人台、後期の1800年代の最盛期には約七千人にまで増えています。
住んでいるのはもちろん遊女だけではなく、使用者側や召使、商売人などいましたので、1万人近くいたといわれます。また、客も合わせると、かなりの高密度な空間でした。
遊びの心得
江戸中期には吉原についての書物がいくつか出版されていますが、遊びの心得についていくつか挙げてみますと、
〇床の中での女郎のいうことは嘘と思うこと
〇女郎の過去については知らん顔をして、決して座興にしてはならない
〇女郎を呼ぶとき「三味線ができる」とか芸を表に出される女は十中八九不美人だ
〇女郎の悪口を他所で言ってはならない。いやなら別の女にすればよい。
〇女郎は金があればあるだけ使う者だから、無心されたからといって欲深いと思ってはならない。
〇女郎と切れたからといって当てつけに隣の店に行ったりするのはよくない。
などなどです。
遊女の掟
江戸後期のある遊女屋の掟を紹介しますと、
〇遊女は嘘を第一とし、間違っても誠意を持たないこと
〇着物や夜具、その他の道具は自分で都合すること。代金はお客にねだること
〇美男が来ても決してほれてはならない
〇ぶ男や老人、病気持ちがお客になっても、お金を持っているならば惚れたように見せかけること。口が臭くても袖で鼻を塞いだり眉間に皺を寄せてはならない。
〇見世(店)からはまともな食事を出さないから、客の分を余計に食べること。酒は出来るだけ飲ませて酔い潰すこと
〇うぬぼれている客はいい獲物なので大いに掠め取る事
などなどです。
禿(かむろ)
花魁の身の回りの世話をした、7,8歳から12,3歳までの少女です。
各地の貧しい農家などから売られてきたものですが、人身売買は禁じられていたので前賃金を払った年季奉公の形がとられました。
13歳になると「新造(新米女郎)」として客を取りはじめます。美形で賢いなど将来の花魁候補になる者は新造にせず、楼主の手元で三味線、歌踊りなどを仕込んでからデビューとなる者もいました。
遣り手婆
花魁から禿まで全てを取り仕切った中年の女性です。
遊女上がりだけでなく、楼主の妾などもいました。
とても厳しい女性で、言うことを聞かなかったり、客を取れない遊女は、殴ったり何日も食事もさせない、裸にして縛り水をかけるなど、遊女たちから恐れられていました。
脱走遊女
遊女が吉原から逃げ出すには、大溝(堀)を越えるか男装して大門から抜け出すかでしたが、失敗して捕まった場合、恐ろしい折檻が待っていました。
楼主自らが出て来て竹べらで殴る、丸裸にして体を四つ手にして縛り上げて天井から吊るして殴りつけるなど、時には責めころされることもありました。
無銭遊興の罰~桶伏せ
散々遊興した後、実は無一文だったという客も中にはいました。
その場合、道に大きな古い風呂桶を伏せてその中に押し込み、上から重しの石を乗せます。
桶には小さな小窓があり水やわずかな飯などは差し入れますが、親類等が代金を払いに来るまで5,6日そのままだったそうです。
狭く窮屈な体勢の上、大小便もその中で垂れ流しですからたまったものではなかったでしょう。
吉原の火災
吉原では度々火災が起こっていました。虐待に耐えかねた遊女が付け火をすることも多かったようです。
しかも、吉原は江戸町火消の管轄外とされていたそうで、延焼することも多かったようです。
ただ、吉原が燃えてしまうと、仮宅といって、幕府から許可を受け、他所で民家を借りて仮営業をしており、その方が客も多く来て儲かったそうです。
大火の際、遊女たちは三日間に限って解放され、そのうちに仮宅に集まってきました。囚人のような扱いですが、あまり逃亡する者はいなかったそうです。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
江戸生活事典(三田村鳶魚著:青蛙房)
世事見聞録(武陽隠士著:青蛙房)
吉原艶史(北村長吉著:新人物往来社)
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