近江の小豪族の子として生まれる
藤堂高虎は一生で7回も主君を変えながら戦国の世を生き抜き、大大名となったことで知られています。
高虎は、弘治2年(1556)に近江国(現滋賀県)で浅井家に仕える豪族藤堂虎高の次男として生まれました。父虎高は近江の生まれでしたが、若いころは一時期甲斐の武田信虎に仕えて軍功を挙げ、一字を与えられたとされています。
子供の頃から良く食べ体格に恵まれていたそうです(成人したときは何と190センチあったと伝わります)。父が主君の浅井家から逆らい屋敷に立て籠もった家臣の討伐を命じられた際、13歳だった高虎も加わることを志願しますが、年齢から許されませんでした。密かに付いていった高虎は、屋敷から逃げ出そうとする相手を見つけ斬り倒し、父を感嘆させたそうです。
兄の死後若くして藤堂家の家督を継いで浅井長政に仕えた後は、数々の戦で武功を挙げていきます。
しかし浅井家が織田信長に滅ぼされると、浅井家の旧臣の間を次々と主を変えながら転々とした後、織田信澄(信長の甥)に仕えましたがここも長続きしませんでした。
高虎と羽柴秀長
主の定まらなかった高虎でしたが、天正4年(1576)に羽柴秀長(秀吉の弟)に仕えると水を得た魚のように活躍します。中国攻めや賤ケ岳の戦いなど着実に武功を重ねてついには1万石の大名になり、更に四国攻めでも活躍します。
高虎は戦だけでなく築城技術なども身に付けていくなど高い能力を発揮し家老として秀長に重用されました(高虎は加藤清正らとともに築城の名手としても知られていますね)。
家康が秀吉に降った後、聚楽第に屋敷を与えられますが、高虎がその造営を担当し、その後も家康との接点が増えていくことになります。
秀長は秀吉の天下取りを陰から支え続けた人格識見ともに優れた人物でありましたが、天正19年(1591)に死去してしまいます。
その後秀長の養子秀保に仕えましたが、秀保も若くして亡くなってしまったため、高虎は出家して高野山に上ったのです。
大名としての復活~秀吉、家康からの信頼
しかし高虎の才能を知る豊臣秀吉が還俗を命じて伊予国板島で7万石の大名となり、朝鮮出兵などでも活躍します。
秀吉の死後は家康と接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて功を挙げ、戦後に今治の地を与えられたことで20万石の大名となります。
今治城と高虎像
また戦場だけでなく、江戸城をはじめとした各地の城の縄張、普請でも活躍しています。
家康もまた高虎の能力を高く評価し、「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を井伊直孝」との言葉を残すほど信頼していたといわれており、上野東照宮の家康の像は譜代の徳川家臣を差し置いて信頼の厚かった高虎と天海僧正の像に挟まれているそうです。
大坂夏の陣での激戦~歴戦の家臣たちが次々と・・
なお実際に大坂夏の陣では、井伊家とともに外様ながら藤堂家が河内口の先鋒を務めますが、そのときの激戦(八尾・若江の戦い)を紹介します。
藤堂軍は五千人で、
・藤堂高刑(高虎の甥)
・桑名弥次兵衛(長宗我部家の元重臣で関ヶ原後に藤堂家に仕える)
・藤堂良勝、藤堂良重(高虎の従兄弟で幼き頃から高虎と行動を共にする)
・渡辺勘兵衛了(増田長盛の家臣で関ヶ原後に藤堂家に仕える)
などが各部隊を率いていました。
当時、高虎が新参の渡辺勘兵衛を重く用いることに譜代の家臣らの不満が高まっていたようで、藤堂軍は連携が取れないまま大坂方の長宗我部盛親、木村重成の軍勢と激突します。
長宗我部盛親は軍勢を堤の上に伏せさせて待ち伏せし、高刑らが近づいたところで一気に槍を立てて総攻撃したことで、高刑らは討ち取られてしまいます。桑名弥次兵衛も、相手が旧主であったため自殺するように長宗我部勢に突っ込んで討死したといわれます。
更に、高虎とは兄弟のような間柄であった藤堂良勝、藤堂良重兄弟も木村重成軍と激戦を繰り広げる中討死してしまうのです。
一方の渡辺勘兵衛は、敵を撃破するも高虎の度重なる撤退命令などに従わず独断で行動していたことから高虎と決別し、戦後に藤堂家を出奔してしまいます。
この戦いで長年高虎と苦楽を共にしてきた藤堂家の名のある家臣はことごとく討死したといわれ、高虎にとっては名誉と引き換えにあまりにも大きい代償を払うこととなったのでした。
晩年の高虎
加増により32万石の太守となった高虎は、領地である津の開発に努めるとともに、将軍秀忠からも厚い信頼を受け他藩の後見なども任せられていましたが、寛永7年(1630)に74歳で亡くなります。
1人の主君に生涯忠義を尽くすのが武士のあるべき姿とされたのは江戸時代に入ってからの一般的思想であり、高虎が不忠の人物であったとはいえません。何としても生き残るたくましさ、時流を読む能力に長けていた優秀な武将だったのでしょう。
その後の藤堂家(高虎の子孫)~鳥羽伏見での裏切り
家康が藤堂家は要衝の地である伊勢から動かさないよう遺言していたと言われ、改易や移封されることもなく幕末まで伊勢津藩の藩主として続きました。
しかし幕末の鳥羽伏見の戦いでは、藤堂家の津藩兵も幕府軍の一員として参戦していたにもかかわらず、途中で官軍側に立ちいきなり幕府軍を攻撃したため、敗れた幕府側からは「変節は藩祖に似たり」「藤堂の犬侍」などと揶揄されてしまいます(ノД`)・゜・。
江戸では裏切りに怒った会津藩が藤堂藩邸を焼き討ちにするとの噂が流れたため、あわてて会津藩邸に謝罪使を送って言い訳したそうですが、藤堂家は時流に沿った対応で家を守ったともいえるのではないでしょうか。
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