鎌倉幕府の名執権といわれた北条泰時(江間太郎)の逸話を紹介します。
北条泰時と明恵上人~「無欲」になりなさい
泰時が承久の乱後に京都にいたとき、明恵上人という高僧に
「私は不肖の身ながら重役を仰せつかり日夜悩んでいます。どのように人を治めたらよいのでしょうか、どうすれば争い事がなくなるのでしょうか」
と尋ねると、明恵は一言「無欲になりなさい」と答えました。泰時が、
「自分1人が無欲になったとしても、下の者たちは無欲にはならないのでは。どうすれば」
と重ねて尋ねても、明恵は、
「下の者たちのことは考えずにあなただけ無欲になりなさい」
と答えたため、泰時は固くそれを信じて鎌倉に帰ったそうです。
鎌倉に帰って父義時の跡を継いで泰時が執権になった際、所領や財物をほとんど弟たちに分けてしまい、自分にはわずかしか残さなかったそうで、北条政子が、
「あまりにもあなたの取り分が少ないのではないか」
と言うと、泰時は
「自分は家督を継がせてもらったので十分です。弟たちが豊かになってくれれば」
と答えたといわれています。
泰時と弟朝時の危機
また、寛喜3年(1231)、泰時が執権であったときに弟の朝時邸に賊が討ち入ったとの報告がなされました。
泰時はすぐに刀を取り朝時邸へ向かったので、叔父の時房ほかその場に居合わせた人々も泰時の後を追いました。
幸い朝時は留守中で、討ち入った賊は留守番の家来たちに打ち取られたとのことであり、泰時は安堵して引き返したのです。
この時のことについて家来の一人が、
「執権殿は重職の身であり、まずは自分達家来を遣わして状況を見極めて対応すべきで、何も分からないうちに自ら駆け出していくのはよくない」
と申し立てました。
泰時は、
「お前の言うことは最もなことであるが、身近な者を助けるのは人として当然のことで、みすみす弟が殺されたとあっては世間からそしりを受け重職も何もない。他人はどうであれ兄にとっては一大事」
と答えたそうです。
周りにいた人々は、双方の言い分について論じ合うも、どちらが正しいかは結局結論を出すことはできなかったとのことですが、泰時の性格が垣間見えるエピソードですね。
新着記事