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源頼朝の死の謎

 源頼朝が死んだのは正治元年(1199)1月13日です。相模川架橋の落成式の帰りに落馬し、それが原因で病気になり死亡したとされていますが、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」には、その死亡の時期3年間の記事が書かれておらず欠落しています。

 この時期だけ欠落しているのは不自然なことから、昔から頼朝の死に関して落馬を原因とする説のほか、様々な説が唱えられてきましたのでいくつか紹介します。

家臣に誤って殺されたとする説~女遊びの果て?

 ある晩、頼朝の館を安達盛長という御家人が警護していたところ、白衣を被った者が館に忍び込んできたので、「曲者!」と斬りつけたところ、実は政子の目を避けて愛人の元へ通っていた変装した頼朝であったとするものです。

 盛長は頼朝であったことに気付き腹を切ろうとしますが、まだ息のあった頼朝に止められ、政子と大江広元の計らいで遺体を寝所に運び、死因を落馬と偽ったとのことです。

政子に殺されたとする説~畠山重忠と間違われた?

 ある時、頼朝が妻の政子に、「家臣の中で誰が一番美男子と思うか」と尋ねたところ、「畠山重忠に勝る者はおりません」と答えたことから、心中穏やかでなくなった頼朝が、試しに重忠の格好に似せて政子の寝所に入ったところ、激怒した政子が頼朝と気付かずに長刀で殺してしまったとするものです。

亡霊に病んで死んだとする説

 橋の落成式帰りに八的が原ということろで源義広、義経、行家の亡霊が現れ、頼朝はやりすごしたものの、今度は稲村ケ崎で安徳天皇の霊が現れ、館に帰った頼朝はそのまま病に臥せり、死亡したとする説です。

 実際に亡霊に殺されることはありませんが、あまりに多くの殺生に関わってきたことを後悔して病んだのかも・・・

北条氏ら御家人による謀殺説

 落馬説のほかでは最も有り得る話です。坂東武者達にとって最も重要なのは、既得権益者(朝廷や貴族)から自分たちの権益(土地)を守ってくれる御輿でした。

 頼朝は血筋や経歴からその最適任者として御家人も従っていましたが、娘の入内を画策するなど次第に朝廷側に寄り添う姿勢が見え始めたため、北条氏ら御家人から暗殺されたとするものです。

 なお、徳川家康は頼朝の信奉者で吾妻鏡も愛読書であったといわれています。頼朝の死に関する記述が不名誉なものであったため、家康が該当部分を削除させたとの説もあります。

名執権北条泰時のエピソード
北条泰時(江間太郎)の逸話を紹介します。寛喜3年(1231年)、泰時が執権であったとき、弟の朝時邸に賊が討ち入ったとの報告がなされました。