日本三大怨霊
古来から日本では、不幸な最期を遂げた人は「怨霊」となると信じられ、祟りを恐れられてきました(怨霊信仰)。
特に有名で「日本三大怨霊」と呼ばれているのが、菅原道真、平将門、崇徳上皇の3人です。
崇徳上皇とは
平安末期の元永2年(1119)、崇徳天皇は鳥羽天皇の子として誕生しわずか3歳で天皇に即位しました。
しかし、天皇位や藤原氏の実権をめぐり激しい権力闘争がおこなわれた時代で、崇徳天皇も若くして譲位を迫られ上皇となり、その後武士勢力の台頭もあって混乱に拍車がかかっていました。
ついに保元元年(1156)、皇位継承を巡り、崇徳上皇側に藤原頼長、源為義(頼朝の祖父)、後白河天皇側に藤原の忠道、平清盛、源義朝(頼朝の父)が付き、身内同士が敵となり争う保元の乱と呼ばれる戦いが起こったのです。
戦いは後白河天皇側の勝利としてあっけなく決着がつき、崇徳上皇は讃岐(香川県)に流されることとなりました。
讃岐への島流し
過去の先例から上皇自身は都近郊での謹慎のような待遇を想定していたと思われ、海を渡っての追放(島流し)はかなり衝撃的なことであったと思われます。
泣く泣く讃岐へ到着した上皇でしたが、自身の願いや死んだ者への追悼の意味もあったのでしょうか、讃岐では静かに大乗経の写経に打ち込む日々を過ごしていました。
3年間丹精を込めた五部の写経を奉納のため京都の寺に送り届けたところ、信西入道らに現天皇への呪詛ではないかと疑われ、なんと送り返されてしまったそうです。
上皇は「口惜しや、事去りて時移れば咎を許すが王道であろう!!」と激怒し、指先を嚙み切ってしたたる血で
「我日本国の大魔王となり、皇を民となし、民を皇となさん」
としたためたといわれます。
その後、生きていても無益なりと髪の手入れもせず爪も切らず、長寛2年(1164)に崩御しています。
怨霊信仰と鎮魂
その後、都で凶事や天変地異があれば崇徳上皇の祟りであると恐れられたため、朝廷は崇徳上皇の怒りを鎮めようと神社をつくり祀ったそうですが・・
更に時代を経て慶応の孝明天皇のとき、崇徳上皇の霊を讃岐から京都に還すとして御陵から名をとった白峰宮の造営にとりかかって明治になって完成し、明治天皇も参拝しているということです。
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