浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りつけた松の大廊下の刃傷事件から8年後にも、朝廷からの使者を迎える際に大名による刃傷事件が起きています。
今回は、前田利家の曾孫である大聖寺新田藩主前田利昌が、織田信長の弟・有楽斎長益の玄孫である大和柳本藩主織田秀親を刺殺した「上野寛永寺における刃傷事件」について紹介します。
上野寛永寺における刃傷事件
利昌は加賀前田家分家の生まれで、元禄5年(1692)に兄の大聖寺藩主前田利直から1万石を分知され大名になっており、事件当時26歳でした。
宝永6年(1709)1月、5代将軍徳川綱吉が亡くなり、利昌は上野寛永寺で行われる葬儀での中宮使饗応役を命じられます。
この時同役の大准后(じゅごう)使饗応役を命じられたのが、事件の相手となる大和柳本藩主の織田秀親(ひでちか)です。
事件が起きたのは、中宮使らがやってくる当日の宝永6年(1709)2月16日でした。
現場に居合わせた岡田弥市郎という利昌の家臣の手記によると、饗応役等各役人が集合した16日夜明け前、利昌は寛永寺宿坊の書院脇の廊下突当りに秀親を呼び出し、一言二言言葉を交わした後、備前則光の脇差で秀親の胸の下あたりを背中まで突き通し、さらに左肩と腰を斬りつけで秀親を殺害したのです。
目撃した岡田が駆け付けたところ、現場は蝋燭の火はあったものの薄暗かったため、利昌は邪魔者が来たと見誤って岡田にも斬り付けます。
岡田は傷を負いながらも名を名乗って利昌を止め、さらに利昌の家老の木村九左衛門が現場に駆け付けました。
ここで利昌は、木村と岡田に対し、
「ここで自害するべきか」
と尋ねたところ、木村が
「病気と言って一旦屋敷に戻りましょう」
と答え、秀親の遺体を屏風で隠し、利昌主従はそこから立ち去ります。利昌は秀親の遺体を睨みながら立ち去ったそうです。
夜が明ける頃、利昌は駕籠に乗って自邸まで戻り、兄の大聖寺藩主利直に事の次第を連絡すると、利直は驚愕し宗藩の加賀藩邸にも一報を入れて利昌の元へ急行します。
その後利昌の屋敷には加賀藩主父子をはじめとした親類一同が集まったそうです。
一方の寛永寺では、秀親の遺体が発見され大騒ぎとなりますが、とにかく秀親と利昌の饗応役の代役を立てて諸行事を遂行します。
そして午後になり、大目付らが利昌の屋敷に派遣されて取り調べが行われ、その日の夕方には利昌は淀藩主・石川義孝に預けられたのです。
利昌は18日に切腹を命じられ、即日腹を切っています。利昌の死により大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されますが、すぐに兄の大聖寺藩に還付されました。
秀親の織田家の方は、弟で養子の成純(しげずみ)の家督相続が認められ、その後も存続しています。
事件に関する逸話
事件の原因
利昌の真意は不明ですが、事件の原因は元々の不仲といわれています。
元々前田家の主君である織田家の血筋ということと、秀親の方が48歳とかなり年長であったことから利昌を侮った態度を取っており、事件前日の2月15日の準備の際、翌日の行事について書かれた老中の奉書が届けられ、饗応役はそれを回覧することになっていましたが、秀親は利昌に見せようとしなかったともいわれています。
そのため、事件当日突発の行為ではなく、秀親に対する怒りを募らせた利昌が前日から計画していたと。
家老とのやり取り
事件の直前、利昌は家老の木村九左衛門に対し、
「人を倒すには突くのがよいか、斬るのがよいか」
と尋ね、木村は武芸の一般論と捉え、「突くのがよい」と答えます。
利昌はそのとおり秀親を突いて倒したのですが、久左衛門は主君の真意に気付かなかったことを後悔していたといいます。
利昌の性質
生前利昌が江戸に屋敷を与えられた際、立派な庭を造りたいと望みましたが、金銭が足りず、毎年少しずつ貯えて作ることにしたそうです。数年かかって百三,四十両貯まってそろそろ庭を作ろうとなったとき、米価が下がって家臣が困窮していたため、結局その貯えた金は家臣に分配したそうです。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
大聖寺藩史(大聖寺藩史編纂会編)
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