戦国時代に来日した宣教師の見聞記録は、当時の社会様相を外国人の目で客観的に観察した興味深いものですが、今回はその中から、ルイス・フロイスらが十三代将軍足利義輝について、周囲から見られていた立場、面会したときの状況、そして義輝の最期について記した部分について紹介します。
天皇と将軍
日本の島は66か国に分かれており、かつてそれらの国々は全て「内裏」と称する君主に従属していた。その君主は「公方」と称する軍隊の総司令官を配下に置いていたが、互いに争うようになり、その結果、総司令官が全てを領有し、筆頭たる君主に服従しなくなった。その後、各国の統治者らが各自に謀反を起こし、君主にも総司令官にも従わなくなった。
君主はこの都において貴人として敬われているが、地に足を付けることができない。もし地を踏めばその地位を追われるのであり、裕福ではないが崇敬されている。ただし服従する者はいない。総司令官もこの都におり、幾らかの力を有するが、立ち上がって己の地位を取り戻す程ではない。
これはここ四百年の話であり、絶対的な権力者が不在であるが故に平和も静寂もなく、各諸侯が己の力によって国を領有している。彼らの間に戦争が絶えない原因はここにある。
(1564年7月 京都 ガスパル・ヴィレラ)
都の実情
都の政治は三名の人物が取り仕切っている。第一の人は公方様(将軍足利義輝)と称する日本の王である。
第二の人は彼の家臣の一人で、三好殿と称する。第三は三好殿の家臣で、松永(久秀)殿という。
第一の人は王としての名声以外に有するものがなく、第二の人は家臣ながらも権力を有している。
第三の人は第二の人に臣従し国を治め、法を司る役職にある。
(1564年10月 フェルナンデス修道士)
将軍足利義輝との面会
(1564年11月10日に平戸を出発、1565年1月27日堺、1月末に都に到着)
我らは15から20名のキリシタンを伴って行った。私が携えて行った進物は大きな水晶鏡と帽子、琥珀、少量の麝香(じゃこう)、竹の杖であった。我らの修道院から公方様の宮殿まで四分の一里程離れており、町は直線的で道はことごとく平坦である。
我らは始めに甚だ有力な大身で公方様の宮廷で最も寵愛されている一人である内膳頭(進士晴舎?)の邸に赴いた。彼は外出していたのでその長子が我らを歓待してくれた。彼は金を塗られた器で我らに盃を与え、その後に父が帰ってきた。我らは彼に沈香を贈り、彼と共に邸を出て宮殿に向かった。
公方様の宮殿は非常に深い堀で周囲をことごとく囲っており、橋が一つ掛けられている。邸の外には三、四百名の高貴な兵士らと多数の馬がいた。司祭と私が中に入ると、全ての貴人が我らを歓迎し、しばらく一室で待った。
その後案内と共にさらに二部屋奥へ進み、そこで公方様が待ち受けていた。まず司祭が挨拶して戻り、次に私が入った。
断言できるが、全て木で造られた邸であり、これほど豪華で見る価値のあるものを私は過去に見たことがない。というのも、公方様がいる部屋の障壁画は全て金で彩色してあり、蓮と鳥が描かれ、これが甚だ美しさを添えている。
また、部屋に敷き詰められた敷物には数多の技巧が凝らされ、窓の格子はかつて見た中で最高のものである。公方様は案内の内膳頭を介して司祭が纏っていた外套が珍しく美しいと見てみたいと伝えてきた。外套は公方様の元に運ばれ、すぐに戻ってきた。
その後、別の部屋で中央にある戸が開かれると、そこには奥方が坐っており、案内の内膳頭は沈香を彼女に贈った。
我らは入口で挨拶した後、内膳頭と共に公方様の御母堂の邸へと向かった。その家は同じ敷地内にあるが、独立した別の宮殿である。我らは華やかに装飾された3,4の部屋を通った。
彼女と対面した部屋には多数の貴婦人が座っており、内膳頭が慣例の紙と金の扇を、そして数個の金を塗った磁器を献上した。その後盃が運ばれ、最初に彼女がこれを取り、そして列席の貴婦人らに命じて盃と肴を我らに与えさせた。肴とは我らにおけるオリーブの実のようなもので、彼女は食事の際に使う棒である箸により、自らの手で取って我らに与えた。これは大いなる栄誉となることである。
邸内はとても静寂で整然としており、私には公方様の御母堂が尼僧院の長老のように、仕える人々が尼僧宗団のように思われた。それは御母堂が阿弥陀の礼拝堂の扉を背にして座っていたからであるが、彼女は礼拝堂を甚だ美しく、かつ注意深く飾っており、阿弥陀像には彩色を施し、頭には冠と金の筋が施してあった。
(1565年3月 京都 ルイス・フロイス)
二条御所の様子
我らは中に入って幾つかの家屋を見たが、それは彼が休養するために別個に設けられたもので、かつて私が見た物で最も清潔、爽快、優雅である。ポルトガルやインドにも、精巧、清潔、優雅の点でこれらに並びうる家屋を見たことがない。
家屋の窓の前には、美しく珍しい樹木の庭があり、杉や松、蜜柑、その他我らの見たことのない樹木が植えられている。これらはいずれも巧みに育てられ、鐘や塔の形など様々な形をなしている。
百合や薔薇、野菊など色々な花も多く、各種の色と香りを有するが、これは彼らが心を慰めるために喜んで栽培しているものであり、見る者を驚嘆させる。
我らはそこから同じ宮殿内の別の庭にも案内されたが、そこは最初の庭よりはるかにすばらしいものであると思えた。厩は杉で造られた家屋で上等な敷物が敷き詰められており、ここで貴人を接待することも可能なほどである。
馬は一頭ずつ個室に分けられ、下部と側面に板が張られており、敷物を敷いた所は馬の世話をする人たちの居所である。
(1565年4月 京都 ルイス・フロイス)
義輝暗殺
過去の書簡において私は日本六十六カ国の皇帝のような公方様がこの都を拠点とし、諸侯は彼に服従していないが最高君主に対するように彼の優越性は認めていると書き記した。
彼は三好殿と称する国の執政官を擁しており、同人は都から十一里離れた飯盛と称する城に住んでいる。三好殿は現在領している数カ国を戦いによって獲得し、百五十人に上るキリシタンの貴人は彼の家臣である。
この三好殿は弾正殿(松永久秀)と称する執政官を擁しているが、この弾正殿は三好殿より遥かに大きな勢力を持ち、かつて日本に存在しなかったほど残虐な暴君で、奈良と称する城に住んでいる。
およそ一カ月半前、公方様は三好殿に称号を与え名誉を高めた。三好殿はこの栄誉を賜ったことを感謝するため、己の城から公方様のもとへ出向くことを欲し、彼の息子と弾正殿、他に有力な諸侯一人を同伴した。
およそ二十日前、彼は一万二千人の兵を率いて都に着いたが、兵は完全武装していた。彼らは都を刺激しないように郊外に留まった。公方様は都において何人もこの兵士達と争わぬよう命を下した。というのも、彼は平和を愛し、十八年の間この都を賢明に治めているからである。
また彼は、我らがこの地に滞在するための許可状を出した。彼は異教徒であるが善良な君主であり、その庇護の下、我らは布教の成果を得ることを期待しながら過ごしている。
三好殿は幾度か公方様を訪問し、その都度大いに歓待された。三好殿は郊外の寺院において公方様を饗応することを決めたが、公方様は三好殿が伴ってきた多数の兵を見てその意図を怪しみ、辞退しようとした。
三好殿ら三人の諸侯は公方様が饗応を受けることを度々懇願したが、彼が恐れていることを悟ったので、三人とも誓いを立て誓書を彼に送り、饗応する以外に何の意図も無く、終われば直ちに各々の城に帰るのみであり、心配ならば公方様の宮殿内にある彼の母の邸で饗応したいと伝えた。
公方様は彼らにその申し出を受ける素振りを見せたが、彼らが謀反を企んでいることを恐れており、その疑いを強めたが、もし謀反が起きてもそれに抗する力がないことを認識しているゆえに、他国へ逃れようとした。
己の信頼する大身数名を伴い、人目を忍んで宮殿を出た。市外およそ一里の所まで来た時、彼は同行者らに己の意図を明かしたが、彼らは、謀反の企みが明らかでないにもかかわらず家臣から逃げることは権威を損なうものであると皆公方様に反対した。
公方様は良き君主であり、家臣を誰も苦しめたこともなく、もし謀反が起きたならば皆運命を共にすると言った。こうして同行者らに説得され公方様は宮殿に戻った。
翌朝、三好殿はその企みを隠し、休憩のため市外一里の所になる寺院へ行くと言って、騎馬兵七十人と共に馬で出かけたが、少し市外に出た所ですぐに引き返し、公方様の宮殿へと向かった。
まだ朝であったことから、公方様の側には約二百名がいるにすぎず、しかも彼らの殆どは都の諸侯であった。公方様の邸はたちまち一万二千人に包囲され、三好殿は宮殿を囲む堀に架けられた橋に陣取ったが、他の二人の諸侯は別の門に位置した。
宮殿内ではこのような尋常ならざる謀反に備えていなかったので、敷地内の門は全て開け放たれていた。多数の鉄砲隊が侵入し、公方様に箇条書を渡したいので取りに来るようにと言った。
ここで、先日我らを案内してくれた老人(内膳頭)が進み出て、箇条書を受け取るとすぐにそれを読んだ。その第一箇条には、公方様が奥方と同老人の娘、その他大勢の家臣を殺すこと、そうすれば彼らはおとなしく引き上げるというものであった。
老人は欺瞞を見て取ったのでその箇条書を地面に投げつけ、彼らが君主に対してこうも忌まわしき謀反を起こすことに畏れも恥も感じていないことを大いに責めた。
そして、このような状況になった以上、切腹すると言った。これは日本の一般的な最も古い伝統で、身分の高い武士らは敵に抵抗することができなくなると、本人も家臣も剣を取って自ら腹を切るのである。
老人は邸内に入ると、公方様の面前で自害した。我らと親しい彼の息子が表に出てしばらく戦ったが、すぐに倒され、外から邸に向け激しい銃撃が加えられた。公方様側近の四人の貴人が駆け付け、門を開くよう叩いたが、開けられないことを知ると彼らは剣を取り腹を切った。
暴君たちの悪事は増々増長し、彼らは宮殿に火を掛けるよう命じた。公方様は自ら戦おうとしたが、彼の御母堂が抱き着いて引き留めた。彼女は我らを歓待してくれた尊敬すべき老婦人であった。
しかし公方様の元には火が迫り、家臣と共に出て来て戦い始めたが、腹に一槍と額に一矢、顔に二つの刀傷を受け、その場で命を落とした。邸内には御母堂とともに公方様の兄弟である二十歳の青年がいたが、彼もすぐに命を奪われ、御母堂は捕らえられた。
ある者は命を助けてやれと言い、ある者はすぐに命を奪えと言った。有力者の娘である婦人らが炎上する宮殿から逃げ出すと、兵士は彼女らを斬り始めた。十五から二十人が軒下に隠れたが、その後火が回り全員が焼け死んだ。
更に兵士らは逃れ出た婦人から衣服を奪った。その中に奥方がいたとのも言われるが、その行方は分からない。今、反逆者らは奥方の行方を捜しており、彼女の隠れ家を見つけた者には多額の賞金を、彼女の髪をつかんで彼らの前に引き摺ってきた者には更に多額の賞金を与えるとしている。
公方様の二人の娘は兵士らの足元に投げ出されていた。あるキリシタンが彼女らのことを知って、ある人に彼女を救ってほしいと頼んだ。
十三、四歳の貴人が公方様の前に立ちふさがり大いに奮戦していたので、謀反人らは彼を生け捕りにせよ、殺してはならぬと叫んだ。
少年は公方様が命を落としたことを知ると、己がそのまま生きることは大きな不名誉になると考え、手にしていた刀を捨てて短剣を抜いて己の喉を切り、続いて腹に突き立てて倒れた。同所では公方様と共に、当国中で最も身分の高い貴人約九十から百名が亡くなった。
反逆者らは宮殿が焼け落ちる前、宮殿や亡くなった諸侯の邸からことごとく略奪を行った。
以上は一時間半か二時間の間に行なわれたことであった。
仏僧らがやって来て公方様の遺体を埋葬するため運び去った。三好殿はあらゆる物を燃やすよう命じ、宮殿は全て焼き尽くされた。
この謀反のことが我らに報じられると、我らは直ちに聖堂に行き主に祈った。4,5人がここを訪れて司祭に会うと、彼らはかくも恐ろしい事件の結末を知って涙を流した。彼らの主やその一族が不当に命を奪われ、また我らの身を案じてのことである。
この時、弾正殿の重臣の一人であるキリシタンが我らに伝言を送ってきたが、彼はその時まで自分の主君の心の内を分かっているつもりだったが、この事件のことは分からず、このような謀反を起こす人は他のあらゆる悪事もためらわず行うであろうから、司祭たちも身の安全を図るべきであるとのことであった。
もし弾正殿やその息子が我らの命を奪うことを決めたならば、堺も街道も全て彼らの兵士によって塞がれておりどうしようもない。
三日後、公方様の奥方が発見された。年は二十七歳で、二人の娘があった。彼女は街から半里程離れた寺院に隠れていた。弾正殿と三好殿が彼女の命を奪うよう命じたことを聞いた彼女は、紙と墨を請い、自らの手で娘に書状をしたためたが、後にそれを読んだ人は誰もが涙を流した。
書状を封じた後、彼女は寺院の僧に感謝と別れを告げ、阿弥陀の祭壇で祈り、悲しむ素振りは見せずに別の部屋へ移り、そこで首を斬られた。
彼女の首を斬った兵士は、やむを得ず彼女の命を奪ったが、もうこのような非道に立ち会うことがないよう、武器を捨てて出家すると話した。
(1565年6月19日 京都 ルイス・フロイス)



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