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織田信長の経済政策~楽市楽座と安土城下町の繁栄

 天正4年(1576)に織田信長が築城を開始した安土城は同7年(1579)に完成します。信長はお膝元の城下町を繁栄させるため様々な施策を出しましたが、その内容について紹介します。

経済政策~楽市楽座

 まずは安土城下に出したお触れの内容です。

・楽市とするので、諸座、諸役、諸公事は一切無税とする
・往還の商人は安土にて宿をとらせる
・普請や伝馬に労役を一切申し付けない。ただし、やむなき公用の際は町人が合力すること
・火事の際、放火なら火元に責任はないが、自分で火を出した場合は追放する。ただし事情をよく調べて軽重によって判断する
・罪人と知らずに同居させたのは咎めない。知っていて隠した場合は罪に問う
・盗品と知らずに買うのは罪に問わない。盗賊と関係している場合は品は持ち主に返せ
・信長領国中に徳政(借金棒引き)を出す場合でも安土では行わない(貸方となる商人を保護するため)
・他国よりの移住者も前からの居住者も平等に扱う。給料を出して雇った者を公役につかせることはしない
・喧嘩口論、押売り押買い、宿の押借りなどをしてはならない
・説諭、処罰等は役人に届けた上で行う
・安土に居住する限り、公用のための例外を除き奉公人、客人といえども一切諸役を課さない
・馬市は安土に限る
 信長が、戦国大名にとって重要であった軍事、農業生産だけでなく経済も重視しており、取引ルールや公役などを明確にして商人を安心させるための施策であることがわかります。当時の商人がどのようなことに困っていたのかも逆に読み取れますね。
 楽市楽座は信長以前にも実施していた大名もいましたが、更に商人を保護することにより他国から人を集め、産業の活性化を図ったのでしょう。

宗教の利用~寺や教会の建立

 信長は宣教師の保護や一向宗弾圧などによりキリスト教ばかり優遇していたと思われがちですが、旧来の仏教も保護(利用)しています。

 人心を落ち着かせるためでしょうか、近江・伊賀国両国の浄土宗総本山として淨厳院を安土に建立したほか、城の近傍に寺社を集めたのでした。

 なお、キリスト教会堂のため土地を与えたとされています(耶蘇会史)

家臣の居住を強制!

 家臣を安土城下に居住させるよう徹底しています。一度家臣屋敷から出火し火事になったため、調べるとその家臣は妻子を岐阜に残した単身赴任状態であり、その他にも岐阜や尾張に家族を残している家臣が100人以上もいたことが判明しました。

 信長は単身赴任状態であった家臣の岐阜や尾張の屋敷を破却させ、その家臣らには罰として近江の道路整備を命じたとされています。

 家臣をそれぞれの知行地から分離して大名の本拠地に集めることは朝倉孝景等他の大名もやっていますが、家臣統制を強めたり兵農分離につながる重要な施策だったのでしょう。

イベントによる城下の賑わい~日本のベネチア

 その他、馬揃えや相撲大会、安土城見学などのイベントを実施するなど様々な施策の結果、安土城下には数千の家が立ち並び繁栄を極め、宣教師をもって「ベネチアのようだ」といわしめています。

 日本史上においても異色を放つ安土城下でしたが、惜しくも本能寺の変後に安土城天主は焼失し、安土城自体も天正13年(1585)には廃城になったとされ、城下については見る影もなくなってしまったのでした(ノД`)・゜・。

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