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荒木村重のその後~秀吉の相伴衆となった晩年

 荒木村重は織田信長に仕えた有力武将でしたが、天正6年(1578)に突如謀反を起こし、一族ことごとく信長に処刑されます。

 しかし本人は逃亡し生き延びて、後に豊臣秀吉(当時は羽柴)の相伴衆となり、利休7哲にも数えられる茶人として活躍しています。
 今回はその後半生について紹介します。

前半生~信長への謀反まで

 村重は天文4年(1535)に荒木義村の子として生まれ、摂津の有力国人である池田家に仕えていました。

 その後、三好三人衆と図って主君池田勝正を追放し摂津で勢力を伸ばしましたが、畿内に勢力を伸ばしてきた織田信長から気に入られて仕えることとなったのです。

 信長配下では数々の戦いで功を重ね、摂津37万5千石の大名にまでなります。嫡男の村次は同じく信長配下で頭角を現していた明智光秀の娘と婚姻するなど、織田政権の一翼を担う大名となったのです。

 信長は配下の武将に勝手に茶会を催すことを禁じていましたが、村重は天正4年(1576)には茶会を催したとの記録されています。秀吉でさえ初めて茶会を開いたのは天正6年とされていますので、村重は相当信長から可愛がられていたのでしょう。

 ところが、天正6年10月、秀吉と共に中国攻めを命ぜられていた村重は、居城である摂津の有岡城(伊丹城)において、突如信長に対して反旗を翻します。

 謀反の理由は毛利家や石山本願寺の調略によるものなど諸説ありますが、一般的には先に信長から謀反を疑われたためやむを得ず起こしたといわれています。村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年もの間徹底抗戦しました。

村重の逃亡とその後

村重の逃亡

 籠城戦が約1年に及んだ天正7年9月2日夜、村重は秘蔵の茶器を携えて数人の家臣と阿古という召使女(愛妾だったとも)とともに落城寸前の有岡城を脱出し、嫡男村次のいる尼崎城へ逃れます。

 命を惜しみ逃げ出したといわれていましたが、近年は毛利家へ援軍を直談判するため脱出したとの説が有力です。

信長による凄惨な処刑

 悲惨だったのは、有岡城に残された女性や一族の家族たちです。信長の怒りは凄まじく、ことごとく見せしめのため残酷に処刑されたのです。

 有岡城に残された婦女子120余人を尼崎で磔にされたほか、村重の家臣ら500余人を4軒の民家に押し込め火をつけて焼き殺し、最後に村重や重臣の一族36人を、車に縛り付けて市中を引き廻した上、六条河原で首を刎ねています。

 戦国の世で人質が処刑されることは多くありましたが、ここまで恐ろしい処刑はないと噂されたそうです

茶人「荒木道薫」としての晩年

 その後村重は、息子・村次と共に従兄弟の荒木元清がいる花隈城に移り、最後は毛利家のもとに亡命して出家し荒木道薫と名乗り、尾道に隠棲したとされています。

 消息を消していた村重ですが、天正10年(1582)の本能寺の変後にはひょっこりと堺の町に現れ、千利休らと親交を持ちながら茶の湯三昧の日々を送ります。

 天正11年2月には津田宗久らを招いて茶会を開いており、秀吉からも扶持を受け相伴衆に加えられ、秀吉の茶会にも度々招かれています。

 茶会への出席は天正14年(1586)正月にも確認されますが、同年5月、52歳で病のため堺で死去しています。

秀吉との関係

 それにしても、主君であった信長へ反逆し、自身の中国攻めにも支障を及ぼした道薫(村重)を、豊臣(羽柴)秀吉はなぜ庇護したのでしょうか?

 秀吉の信長への感情も推測される不思議な対応ですが、信長の元で栄進しながら常にプレッシャーを受けていた村重の境遇と自己を重ね、その謀反の気持ちに同情的であったのではないでしょうか。

 なお、天正12年の宣教師の記録によれば、茶会の際、秀吉が高山右近(村重の元与力武将)のことを賞賛したにもかかわらず道薫は罵ったため秀吉の怒りをかい、更に道薫が秀吉の悪口を言っていたのが秀吉夫人の耳に入り譴責されたため、妻も家も捨てて寺に入ったなどと書かれています。
 しかし道薫はその後も茶人として活動し堺で没しているため、この記録の真偽は不明です。

その後の荒木家~村重の子孫

 村重の嫡男村次も秀吉に仕えましたが、賤ケ岳の戦いで傷を負い歩行困難となり、やがて38歳で病死します。

 その子村常は浅野長晟の庇護を受け、寛永19年(1643)に徳川家光から500石を与えられ旗本となりましたが、正保元年(1644)に養母(村重の娘)の罪に連座して改易されています。

 なお、村重の従兄弟元清(花隈城主)の子孫は代々1500石の旗本として存続しています。

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