寛永9年(1632)備中松山藩6万5000石の藩主池田長幸(池田恒興の三男長吉の嫡男)は重い病の床にありましたが、回復の見込みがなかったため一族の主だった者達が集まって跡継ぎを決める会議をしました。
長幸は長男の長常と不仲であったので、一族の者達は「次男の長純に所領の大部分を継がせよう」との話になっていたそうですが、長幸の弟長頼は「長男がいるのにおかしい」と納得していなかったため、長頼を除いた会議で跡継ぎを長純に決めようとしていたそうです。
ところがそれを知った長頼は会議の場に乗り込み、いきなり刀を抜いて次男の長純に斬りかかったのです。
長純は慌てて逃げたのですが、長頼は後を追います。そこに長純の舅である美濃脇坂藩主脇坂安信(賤ケ岳の七本槍脇坂安治の子)に出合わせると、長頼は安信にも斬りかかります。安信は傷を負いながらもなんとか逃げますが(二階から落ちて気絶したとも)、一緒にいた安信の弟脇坂安経は長頼に斬り殺されてしまいます。
散々暴れまわった長頼は、悠々と引き上げて長常の居所に立て籠もったそうです。
今度は襲われた一族の家臣らが長頼の所へ押し寄せて討ち入ろうとしたため、急を知った長常の舅である堀直寄が300人の家臣に手に手に棒をもたせて駆けつけて一旦その場を収めたといわれています。
その後幕府の評決により、長頼に道理ありとされますが多人数を殺傷したことで切腹となり、跡目争いに絡んでいた安信も1万石の所領を没収され改易となりました。
長常はお咎めなしとして家督相続しますが、後に無嗣改易となっています。
大坂の陣からわずか十数年の出来事で、戦国の荒々しい気風が残るのを感じさせる事件ですね・・・
ちなみに、長常の次女は近江大溝藩主分部嘉治(分部光嘉の曾孫)に嫁いでいましたが、明暦4年(1658)、大溝を訪問していた長常の弟長重が対談中に突如嘉治に斬りかかり、長重はその場で応戦した嘉治に斬り殺され、嘉治もその時の傷が元で翌日亡くなっています。
このような私闘や辻斬りが横行する荒々しい風潮は、5代将軍綱吉の生類憐みの令により生物の殺生が徹底的に禁じられるまで続いたといわれています。
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