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江戸・大名の生活~食事・入浴・奥方の現実

 江戸時代の大名の生活に関しての情報、書籍の多くは、最後の広島藩主で昭和12年まで存命であった浅野長勲侯爵の回顧談が元になっています。

 大名時代の自身の経験や代々の決まり事などについて、その語られた内容についてそのまま紹介します。

大名の食事

 献立は前日に黄金の板に書いて出されるのが例になっていたが、腹の具合にかかわらず毎日同じ量を食べないと、何か食事に不具合があったかとか医者に見せないといけないとか面倒なことになってしまうので気をつかった。多く食いたくても少なく食いたくてもそうはいかなかった。
 また、食事に鼠の糞が落ちているような場合は家臣が切腹となりかねず、塵が落ちていても免職であるので、家臣を傷つけないよう隠さねばならぬ。傍に付いている小姓にもばれないよう隠すのに苦労した。
 食事自体も作られた後に側に仕える者が少しずつ毒見したり種々の手を経て出てくるので冷たくなってしまう。内容も決して御馳走というわけではなく、倹約令前は一汁三菜、その後は一汁一菜で、朝は焼味噌か豆腐くらいだった。
 重役を慰労するために年二回位酒宴を催すことがあり、別荘において馬に乗せたりしてその後酒宴になる。昔の酒宴は膳が先に出て飯を食してから酒が出る。
 酒宴のときは無礼講ということになっていたが、決して大騒ぎをするのではなく、言語動作が平常より変わることをいい、家臣に「一つ謡でも謡え」と言ったりすることであった。

大名の入浴

 風呂の準備は居間坊主というのがするが、直接言葉を交わせる身分ではなく、湯が熱くても水でうめよと言えないので、独り言で「熱い熱い」という。
 すると坊主が小姓の元へ行き、何か殿様が御用があるようですと伝え、そこで小姓が初めて出てきて何か御用ですかと聞いてくるので湯が熱いと伝え、そうすると小姓が坊主に湯をうめよと伝えてようやく湯がうめられる。
 寒い中でもお湯の調節ができるまで裸で立って待っていることもあった。

大名の奥方

 正妻は江戸に置いて国元へ連れて行くことはできない。全く人質にされた形であった。執政、用人などの外は妻と面会することは許されていなかった。隣国とは結婚できない掟であり、幕府の政策上隣国と親密にさせないためであった。
 夫婦関係はすこぶる厳重で、妻の側には老女、若年寄が常に付随していた。
 妻は里方の喪にかかっても通常の化粧等して喪に服さないようにしており、夫のいないときに心の喪に服す位であった。妻の父母が病気にかかっても見舞いに行くことはしない。
 余の妻の母に当たる人が病気になったとき、山内家(妻の実家)の方から見舞いを固く断ってきた。一度嫁にやった以上は夫の方が大切であるから母の病気でも見舞いに来る必要はないというのである。
 余が妻を連れて見舞いに行くとなれば許されるので、「後から余も行くから先に行け」と言って半日位先に出したりした。危篤ということになって初めて一晩里方に泊まらせた。かかる気風はどの藩でも同じだったと思う。

大名の小姓

 小姓という役目も中々骨の折れたもので、小姓になる時は誓紙血判をして側での事は一切他言せずと誓った。勤役中は親族等の所にも行くことができない。これは内密が漏れるのを防ぐためであった。
 余の寝る居間には二人ずつ交代で小姓が詰めて正座していたが、その間言葉を発することはおろか咳一つすることもできなかった。これは武家として陣中に居る心持であったためである。

次回は「大名行列」「参勤交代」「江戸登城」について紹介します。


江戸・大名の生活~大名行列・参勤交代・江戸登城の現実
前回(大名の食事・入浴・奥方)に引き続いて、最後の広島藩主であった浅野長勲侯爵が維新後に語った大名の生活について紹介します。

参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
平野書房)

江戸・大名の生活~松江藩邸の入墨美人
江戸の松江藩邸では背中一面に入墨を入れた美女たちが・・・・・