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江戸の女武者~大名屋敷の女別式

大名屋敷の女武者

 江戸中期、大名屋敷の奥向(私邸空間)には「女別式」と呼ばれる女武者がいました。

 普通の武士と同じように腰に両刀を帯び、衣類も着丈にして眉を剃った凛々しい姿であったといいます。

 御三家をはじめ、前田、島津、伊達、鍋島、毛利、黒田、細川など20家余りにいたといわれ、各家で「刀腰婦」「剣帯役」「御別女」「刀持女」など様々な呼び名があったようです。

女別式の起こり

 この女別式が始まったのにはある経緯があったといわれます。

 徳川5代将軍綱吉の愛妾お伝の方(瑞春院)にお松という妹がいました。お松は300石の旗本白須才兵衛に嫁ぎ男女の子を生みましたが才兵衛が早死し後家となっていました。

 驚くことにお伝の方を寵愛する綱吉の意向により、お松の男子は跡継ぎがおらず無嗣改易となった美濃郡上藩主遠藤家の跡継ぎとなります(遠藤胤親)。また、女子は綱吉の側近牧野成貞の養女となり出羽本庄六郷政晴の妻となったともいわれています。

 突如大名の母となったお松ですが、その気負いからか、元々の気性なのか、大変学問や武芸を好んだ女性だったそうです。

 家臣の侍はいうまでもなく女中にも剣術の稽古をさせるだけでなく、麻裃を着せ大小の刀を帯びさせたといいます。更に正月11日の具足開きの日と9月9日の神功皇后凱旋の日には女中にも甲冑を纏わせたといわれます。

 お松の趣向は江戸で評判となり綱吉の耳にも入り、興味を持った綱吉がお松を召したところ、下げ髪に大小を帯刀し、同じく帯刀した女中を従えて登城してきます。

 その度胸を気に入った綱吉が、将軍の役に立とうとするつもりがあるのかと尋ねたところ、お松は

「何として女子風情が御上の御用に立てましょう。しかしながら火災などの折には御台様(将軍妻)の御側近くに参り、相応のお役に立てるよう武芸を少々心がけております。

 また、家中の女中については武芸はいらぬように思われますが、女中が武芸を嗜むことにより侍共も引けを取らぬよう武芸に励むことになるかと思われます。」

と答えたため、綱吉は益々お松を気に入り大いに褒めたそうです(^_^)

 このことが大名の間でも評判になると、元々奥向は女ばかりで不用心な面もあったことから、警備に丁度良いと各大名でも女武者を作り上げていったとのこと。

 この女別式は寛政の改革による倹約令で各家の奥向が縮小されるまで続いていたといわれています。

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