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悲劇のヒロイン・細川ガラシャの生涯

 「関ヶ原の戦い」の直前、人質に取られることを拒否して命を絶った女性がいました。その女性は明智光秀の娘で、細川忠興の妻であり、キリシタンであった細川ガラシャといいました。

 そんな悲劇の最期を迎えた細川ガラシャの生涯について解説します。

ガラシャの生い立ち

 細川ガラシャは永禄6年(1563)、明智光秀の三女として越前国で生まれました。本名は玉、または玉子といいます。母の煕子(ひろこ)は光秀の正室で、美濃の国人・妻木(つまき)氏の娘でした。

 なぜ、越前国で生まれたかというと、当時の光秀は美濃国の戦国大名・斎藤義龍によって本拠の美濃明智城を落とされており、浪人となって越前国の朝倉義景に仕えていたからです。ここでガラシャは生まれたということです。

 父の光秀は、その後、織田信長に仕えて出世を重ねて重臣に登りつめました。母の煕子は天正4年(1576)に病気で亡くなっています。

 天正6年(1578)8月、信長の命により同じ織田家に仕える細川(長岡)藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎ、山城国勝龍寺城に輿入れしました。

 二人はともに15歳の美男美女のお似合いの夫婦で、信長が「人形のように可愛らしい夫婦」と言ったと伝えられています。

 二人の間には、三男二女が生まれたといわれています。

 仲睦まじく順調に結婚生活を送っていましたが、事態が一変する出来事が起こります。

本能寺の変後のガラシャ

 天正10年(1582)6月、父・光秀が主君信長を討つ本能寺の変を起こしたのです。

 変後、光秀は親戚である細川藤孝・忠興親子に協力要請をします。娘の嫁ぎ先であり盟友でもあった細川家は自分に味方してくれると考えていたのでしょう。

 しかし、藤孝は信長への恩義を優先して光秀の再三の要請をきっぱり断り、家督を忠興に譲って、剃髪(ていはつ)して田辺城に隠居してしまいました。

 忠興はガラシャを実家へは帰さず、丹後国の味土野(みどの)という山奥にある屋敷で隠棲させました。

 その後、光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れて討たれ、明智一族は殺されていきます。

 味土野の地で2年間の隠棲生活を送ったガラシャは天正12年(1584)3月に羽柴秀吉の取り成しもあって大坂の細川家へ戻ることが出来ました。

 しかし、大坂でのガラシャはやはり「謀叛人の娘」として、外出もなかなか出来ない立場で苦悩の日々が続いていました。

ガラシャ洗礼を受ける

 夫・忠興が九州征伐に従軍すると、ガラシャは精神的な不安を解消するためか、秘かに侍女たちとキリスト教の教会に行き、そこで修道士の話を聞きました。

 キリストの教えに目覚めたガラシャは屋敷に帰ってからも信仰に励み、洗礼を受けることになったのです。

 しかし、同じころ秀吉による「バテレン追放令」が出されてしまいました。

 夫・忠興にキリシタンになったことを告白しましたが、これを聞いた忠興は激怒します。秀吉がキリスト教をよく思っていないことから、細川家が危機になると考えたからです。

 ガラシャに棄教をせまった忠興でしたが、ガラシャは頑として聞かなかったため、ついに黙認することになったといわれています。

 しかし、それからの忠興は嫉妬が激しくなりガラシャに辛くあたるようになったそうです。

ガラシャと忠興の逸話

 その当時の二人の関係をあらわしている逸話を紹介します。

 あるとき細川家の屋敷にいた庭師がガラシャの美貌に見とれていたということで、忠興の逆鱗に触れ、切り捨てられてしまいました。その光景を見ていたガラシャでしたが表情ひとつ変えなかったそうです。

 すると忠興はガラシャにむかって「お前は蛇のような女だ。」と罵ります。

 それに対してガラシャは「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう。」と言ってその場を去ったそうです。

 また、忠興が家臣を手討ちにして、刀についた血をガラシャの小袖で拭ったことがあったそうです。しかしガラシャは、血のついた小袖を平然と何日も着続けたため、たまりかねた忠興は「頼むから着替えてくれ」と詫びを入れたそうです。

 なかなか修羅の夫婦ですね・・・

ガラシャの最期

 慶長5年(1600)7月16日、忠興は徳川家康に従い、会津の上杉景勝征伐に出陣します。

 忠興は「もし自分の不在中、妻の名誉に危険が生じたら、まず妻を殺し、全員切腹するように」と家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に命じていきました。

 宣教師の記録によれば、この時期ガラシャは死期を悟ったように、宣教師と書簡のやり取りで最後の時の覚悟に付いての教えを乞うたとされています。

 その後、西軍の石田三成は大坂の細川屋敷を兵で囲み、ガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒絶します。

 小笠原秀清はガラシャに逃げるように言いましたが、ガラシャは「わが夫が命じている通り自分は死にます」と断り、侍女・婦人たちを外へ逃がしました。

 自殺はキリスト教で禁じられているため、小笠原秀清がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に火を放ち自刃しました。

 石田三成はこの壮絶な事件に驚き、この事件のあとは諸大名の妻子を人質にすることを断念したといわれています。

 ガラシャを失った忠興の悲しみは深く、キリスト教式の葬儀を行い、菩提を弔ったといいます。

ガラシャの子孫

 ガラシャと忠興の間には3人の男子がいました。長男・忠隆、次男・興秋、三男・忠利です。

 長男・忠隆は細川家の跡継ぎでしたが、ガラシャが自害した時に忠隆の嫁が自害せずに逃げたので、これに怒った忠興は忠隆に嫁を離縁するように言いました。

 忠隆の嫁は前田利家の娘で千世(ちよ)といいました。

 しかし、忠隆は千世を離縁しなかったため、勘当されて廃嫡されることになったそうです。

 また、廃嫡の理由は家康から謀反の疑いをかけられた前田家と縁を切りたかったからともいわれています。

 一方、三男・忠利は「関ヶ原の戦い」の時には、徳川家の人質となっていて家康・秀忠の側近くで仕えていました。忠興としては、細川家の将来のためにも、徳川家と縁がある忠利を後継に考えたといいます。

 次男の興秋は、弟が跡継ぎになったので、その身代わりとして江戸へ人質となるために向かいますが、その途中で出奔してしまいます。

 その後、大坂の陣で豊臣方に味方し大阪城に入ったため、戦後に忠興から切腹を命じられています。

 元和6年(1620)、忠利は父から家督を譲られて小倉藩主となります。そして、寛永9年(1632)、改易された加藤忠広の後に小倉から移封されて、熊本54万石の初代藩主となりました。

 寛永14年(1637)に熊本城近郊の下立田に泰勝院を建立して、祖父の藤孝夫妻と母・ガラシャの墓を移して供養しました。

 忠興は正保2年(1645)12月に八代城で亡くなり、その後ガラシャが眠る泰勝院に葬られました。

 その後代々熊本藩主はガラシャの子孫がなっていましたが、7代藩主の細川治年が亡くなったことで細川本家ではガラシャの血統は絶えることになりました。

 長男・忠隆の子孫が熊本藩の一門家臣・細川内膳家として現代にガラシャの血筋を残しています。

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